気ままに

大船での気ままな生活日誌

寅虎トラ

2010-01-19 18:50:06 | Weblog
今日も陽気に誘われて、午後、上野に行ってしまった。前回、買い忘れていた、800円の”洛中洛外図屏風 舟木本”のリーフレットを東博で手に入れ、また実物の舟木本をみて、前回十分にみなかった、寅年がらみの美術品を撮ってきたりした。そのあと、旧岩崎邸などを見学して帰ってきた。ちょうど、稀勢の里の相撲が始まるところだった。な、なんと5連敗。こんなことでは勝ち越しも難しくなってきた。まるで、応挙の虎のように、猫みたいにやさしくなってしまった。がんばって、本物の虎になってください、稀勢さま。

応挙の虎、二態 

伊万里の染付 この虎もかわいいな

これは、中国の枕らしい。稀勢さまのふて寝用にいいかな。


わたしゃ、やけ酒。師宣さんの北楼で、こんなふうに。

こんな橋口五葉おかかえの、おねいさんにおしゃくしてもらってもいいけど。


徳利は朝鮮の粉引徳利で。永年使うと、”雨漏り”が出てきていい模様になるんだ。


大トラになってしまいそうだな(汗)。稀勢さま、明日はおいしいお酒をのませてくださいね。
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岩佐又兵衛と洛中洛外図屏風(舟木本)、その一

2010-01-19 11:36:53 | Weblog
大船フラワーセンターの帰りによく寄る、玉縄図書館で題名にひかれて、この本を手にとった。砂川幸雄著”浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか”である。ぼくは岩佐又兵衛のことをよく知らないし、当然フアンでもなんでもない。”なぜ消されたかに”に興味があったのだ。これは、政財界、学界、芸能界、文壇、等々あらゆる分野でよくあることだが、力のあるボスが、こいつは気に入らないから、自分にとって害になるからと、難癖をつけて才能のある人を消してしまう。そうゆう内容の本ではないかと直感した。やっぱりそうだった。なかなか面白い本で、これにより、浮世絵師、又兵衛に関心をもったし、彼の作品とされる(あとで説明するが、東博では作者不詳となっている)、東博で展示中の”洛中洛外図屏風(舟木本)を観にゆくことになったのだ。

岩佐又兵衛は”浮世又兵衛”と呼ばれ、少なくとも昭和のはじめまでは、”浮世絵の開祖”とされていたが、いつまにかその名誉がはく脱され、画家としての名声まで失われていくのである。その原因は、途中経過はいろいろあるが、決定的なのは、のちに帝大教授となる藤掛氏が、真に浮世絵を確立したものは、菱川師宣であって、又兵衛ではないと強く主張したのだ。彼は木版画を重視し、そのうえ、又兵衛は古典的題材ばかりを扱っていて、今様の風俗画を描いていないという(真贋の標準を落款においているので、無款の又兵衛作の絵巻や風俗画を認めない)。この学説に対し、論理性に欠け、非科学的など反論もあったが、”浮世絵研究協会長”の彼の絶大な影響力のもとでは消え失せてゆくのである。こうして、藤掛氏の学界における権威によって、岩佐又兵衛の名前は、美術史から抹殺されたのである。

著書の砂川氏はもちろん、これに反対する立場であり、又兵衛の復権を願っている。絵に著名がないのは、当時はよくあることで、おえらいさんから頼まれた絵にはむしろ、著名するのは失礼に当たるということもあったらしい。それに、学者には鑑識眼のないのも結構いて、実際、贋作工房(結局ばれて検挙された)の多数の作品を真作だと絶賛して、新聞紙上に発表して、恥をかいた学者もいたそうだ。また、又兵衛が江戸の画家たちに評価されていた一例として、英一蝶が又兵衛と師宣のような巨匠になりたいと述べていたそうである。

一方、鑑識眼のある人たちにより、又兵衛の名品が次第にみつかってくる。”小栗絵巻”や”山中常盤物語”、そして、滋賀長浜の舟木栄医師が所蔵していた”洛中洛外図屏風”を関学の美術史家、源豊宗氏が見つけ、これを岩佐又兵衛作と認定した。その後、この屏風は国が買い上げ、東博所蔵となった。

しかし、東博ではこの傑作を”又兵衛作”としていない”伝又兵衛”ともしていない。”作者不詳”である。何故か?原因が分かった。あの、又兵衛嫌いの藤掛氏が昭和38年まで、東博の評議委員を務めていたのである。それが、原因であろう、これはぼくの想像である。

本当は、東博でみてきた、洛中洛外図屏風(舟木本)の感想も書くつもりだったが、あそびにゆく時間になってしまったので(汗)次回にしたい。



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