先月、鏑木清方記念美術館で”清方描く、季節の情趣/大佛次郎とのかかわり”を観た。戦後、大佛次郎が主宰した、雑誌”苦楽”の表紙絵を清方が担当したが、その原画が20点近く、展示されるという豪華なものだった。そのとき、同時に横浜山手の大佛次郎記念館でも、苦楽に関連する特別展が開催されることを知った。それを見てから、まとめて感想記事を書こうと思っていたが、ようやく実現することになった。
まず、横浜の”大佛次郎、雑誌・苦楽を発刊す”展の方から入ろう。どんな雑誌だったか。後年、大佛が述べたこの言葉に、その返答が余すことなく込められている。心あるものは、この雑誌がアメリカ軍の占領下にひとり日本的なものを貫いたのを知っている。そして、古い日本の残照だった老大家の落ち着き払った仕事が、どれだけ戦後の日本人の感情の喝を癒したことか、わたしは現在も自慢に思っているくらいだ。
大佛が1946年9月に苦楽社を興し、はじめに発刊した”苦楽”についての紹介がある。青臭い文学青年の文学ではなく、社会人の文学を築きたいという志が、創刊号の編集後記で述べられている。その目次一覧があったが、著者名に、里見とん、花柳正太郎、久保田万太郎、吉屋信子、中村汀女の名があり、なるほどと思った。その後、折口信夫の脚本、柳田国男の随筆を載せ、虚子の小説”虹”三部作もこの雑誌から出たそうだ。
そして雑誌の顔となる、表紙絵には日本ならではの美意識をもつ、当代随一の日本画家、鏑木清方にお願いした。清方は快く引き受け、創刊号から、33点の表紙絵を描き続けた。
一方、兄弟誌”天馬(ベガサス)”では、少年たちの未来を明るいものにしたいという願いを込めた誌面とした。創刊号にはホームラン座談会の記事が載せられている。また、研究社の雑誌”少年”の主筆にもなり、青少年のため、自分の頭で考える人間になるよう、訴えた。
このように”苦楽”には、戦後の大佛次郎の夢や希望がいっぱい詰まった雑誌だったのである。
この展覧会でも、雑誌”苦楽”と一部、清方の原画が展示されていたが、それらは、清方記念美術館でたくさんみさせてもらった。そこでは、雑誌”苦楽”とその表紙絵の原画が並べられて展示されていた。やはり、原画は格段に素晴らしい。個人蔵だったようで、はじめてみるものが多い。ちらしの写真だけでもここに保存しておこうと思う。
大佛次郎、雑誌・苦楽を発刊す
清方描く、季節の情趣/大佛次郎とのかかわり
”苦楽”表紙絵(鏑木清方)