おはようございます。はやくも8月に入りましたね。さて、今朝の記事は、萬鐵五郎展のつづきです。
神奈川県立近代美術館で開催されている没後90年/萬鐵五郎展は、次のような展示構成になっていて、前回の記事では、I~Ⅲ章までを紹介している。
Ⅰ.1885-1911年 出発
Ⅱ.1912-1913年 挑戦
Ⅲ.1914-1918年 沈潜
Ⅳ.1919-1927年 解放
萬鐵五郎(1885-1927)が東京でその才能を開花させたあと、1914年に故郷の土沢(現花巻市)に戻り、5年間、”沈潜”した。その間、萬独自のキュピニズムを目指し、もたれ立つ人(1917)などの作品を残した。しかし神経症を病み、その治療のため、1919年、茅ヶ崎へ転居した。それから、41歳(1927)の若さで亡くなるまでの8年間が、Ⅳ章(1919-1927年/解放)である。今回はその茅ヶ崎時代をご紹介します。
明るい湘南の海辺の町に住み始めてから、まさに”解放”されたかのように、萬の画風は一変する。色彩も一気に明るくなり、油彩画だけではなく、日本の伝統絵画の南画(水墨画)にも関心をもち、自らも描き始めた。先ず、茅ヶ崎時代の明るい萬の海辺の姿から。
茅ヶ崎時代の萬鐵五郎
萬も見た、茅ヶ崎海岸のシンボル、烏帽子岩。展示作品のなかにも烏帽子岩を描いたものがある。
土沢時代とはがらりと変わった画風。モデルさんはどなたでしょうか。娘さんかな。
水着姿
そして、南画にも手を染める。
日の出(1919)と川辺の石垣(1914-16年頃)
リズミカルな筆さばき。”筆のリズム、墨のリズム、無論それは人のリズムである”(萬鐵五郎のことば)
松林(1922年頃)
わかれ道(1922)と風景(1922) 同じ場所の風景画。油彩画も土沢時代の暗い色彩から”解放”されている。
未完の”宝珠をもつ人”が涙を誘う。16歳の娘さんが病いに罹り、病気治癒を願って描き始めたもの。
デッサン 和室に裸婦。右手には何かをのせている。
朱色が塗られ、顔の部分が未完である。娘さんは途中で亡くなる。治癒したときに顔を描き入れるつもりだったのだろうか。
右手の玉のようなものは宝珠らしい。そしてモデルは、故郷の成島毘沙門天のようだ。
萬はその一年後、結核で41歳の若さで亡くなる。
没後80年/萬鐵五郎展は、茅ヶ崎美術館で開催された。本ブログでも記事にしている。
それでは、みなさん、今日も一日一生、お元気で!