今日のタイトルは、ボクの愛読書、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」にまねてみました。ついでに、文体も司馬遼太郎風にしてみました(笑)。
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鎌倉のあじさい街道を歩いてみようと思う。江ノ電の長谷駅を降り、長谷寺に向かった。途中、収玄寺を覗いてみる。「四条金吾邸」という五文字が刻まれた石柱をみた。日蓮の弟子で、日蓮が由比ヶ浜で処刑されそうになったとき、身代わりを申し出、土牢に入れられた。江戸時代に、ここに妙詣尼が収玄庵を開いた。紫陽花もある。
そこを過ぎて、左折すると長谷寺の山門前に出る。8時15分だ。開門は8時というが、列はない。話は前後するが、長谷寺を出たあと、近所の方がこう言っていた。昨日の日曜日は7時から列ができはじめ、8時には大通りまでの長蛇の列になったそうだ。さすが、鎌倉一の人気の紫陽花寺だ。
今日は妻と来ている。ツマらない、うるサイとは言わない。お金のツマったサイふがついてきたと思えば良い。余談だが、頼朝ほど妻を怖がった武将はいない。こんなことがあった。頼朝に亀の前という想い女がいた。伊豆の小さな勢力をもつ武将の娘だが、鎌倉に来るとき連れてきた。逗子あたりに住まわせて、政子に内緒で通っていた。これを知った政子は大いに怒り、亀の前の隠れ家を打ち壊してしまったということだ。
寄り道をしてしまった、先に進もう。しかしながら、余談、寄り道で原稿代を稼ぐのが司馬流だ。その点、小林秀雄の文章には無駄がない。真剣勝負をしているようで、息づまるようだ。これだけの仕事をする人は、酒でも呑んでくだをまき、精神のバランスを取らないわけにはいかない。相当、酒癖が悪かったと聞いているが仕方がないことだ。また、寄り道をしてしまった。本論に戻ろう。
さて、長谷寺の紫陽花についてふれたい。明月院の水色一色の紫陽花はプロ向きとすれば、ここの多士済々の紫陽花は素人向きといえる。素直に誰もが美しいと思える。紫陽花山を登ると、遠くに由比ヶ浜を見渡せる場所がある。静かな初夏の海だが、ここはむかし新田義貞と北条高時の激戦地だった。多くの屍が積まれたところだ。余談だが、高時の一番の家来、苅田式部大夫篤時(北条篤時)は、子供を北九州に逃すが、その子孫の一人が高倉健である。余談の余談だが高倉健は壇ふみを可愛がっている。ついでながら、私も壇ふみが好きだ。ついでのついでながら、阿川佐和子も好む。ふたりは漫才コンビのようだ。
話がまた横道にそれてしまった。元に戻そう。ここの紫陽花山の一番の景観は山を下りてきて、輪蔵の前の傾斜地を望む場所であろう。急斜面に立錐の余地もなく紫陽花が植えられ、色とりどりの花を一望にみることができる。ここにカメラマンが集中している。ポスターの写真もこのあたりから撮っている。私も撮ってみた。ついでながら、輪蔵についても説明しておこうと思う。ここの輪のような蔵に一切経が納めてあり、一回まわすと一切経を全部読んだことになるとういわれがある。もちろんお賽銭は必要である。余談だが、私も回してみた。そのとき後から声があった。お客さん、反対に回してるよ、それだと、一切、経を失うことになるよ、と。危ないところであった。
収玄寺の脇の小径を左に入る。御霊神社に至る御霊小路という。御霊神社は鎌倉権五郎を祭っている。頼朝の祖、八幡太郎義家の時代の武者だ。奥州の清原氏との戦いで、矢が右目を射抜いた。そのまま、馬で陣に引き返す途中、落馬し、同伴していた武者が、矢を抜いてやろうと顔に足をかけた。そのとき、矢に当って死ぬのなら、武者の本懐だが、顔に土足をかけられるのはあってよいことかと、拒絶したという。板東中にそのうわさが広まったという。
御霊神社の裏手に、小規模ながら、見逃せない紫陽花小径がある。静かにもの思いにふけるには格好の場所だ。白人の学生がひとり座って、紫陽花をいつまでも眺めていた。鳥居をくぐると、すぐ先が江ノ電の線路である。線路の両脇にこれまた紫陽花がたくさんの花を咲かせていた。どこもかしこも、紫陽花だらけだ。
先に進むと、大通りに出るが、その角にちから餅を売っているお店がある。妻はそこでそのお餅を買った。伊勢の赤福みたいな、あんこでくるんだお餅であった。それをほおばりながら、昨年の大雨の崖崩れ修理で見る影もなくなった成就院の参道を抜け、極楽寺に出た。お寺にも、駅前にも、もちろん紫陽花が我々を待っていてくれた。
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鎌倉のあじさい街道を歩いてみようと思う。江ノ電の長谷駅を降り、長谷寺に向かった。途中、収玄寺を覗いてみる。「四条金吾邸」という五文字が刻まれた石柱をみた。日蓮の弟子で、日蓮が由比ヶ浜で処刑されそうになったとき、身代わりを申し出、土牢に入れられた。江戸時代に、ここに妙詣尼が収玄庵を開いた。紫陽花もある。
そこを過ぎて、左折すると長谷寺の山門前に出る。8時15分だ。開門は8時というが、列はない。話は前後するが、長谷寺を出たあと、近所の方がこう言っていた。昨日の日曜日は7時から列ができはじめ、8時には大通りまでの長蛇の列になったそうだ。さすが、鎌倉一の人気の紫陽花寺だ。
今日は妻と来ている。ツマらない、うるサイとは言わない。お金のツマったサイふがついてきたと思えば良い。余談だが、頼朝ほど妻を怖がった武将はいない。こんなことがあった。頼朝に亀の前という想い女がいた。伊豆の小さな勢力をもつ武将の娘だが、鎌倉に来るとき連れてきた。逗子あたりに住まわせて、政子に内緒で通っていた。これを知った政子は大いに怒り、亀の前の隠れ家を打ち壊してしまったということだ。
寄り道をしてしまった、先に進もう。しかしながら、余談、寄り道で原稿代を稼ぐのが司馬流だ。その点、小林秀雄の文章には無駄がない。真剣勝負をしているようで、息づまるようだ。これだけの仕事をする人は、酒でも呑んでくだをまき、精神のバランスを取らないわけにはいかない。相当、酒癖が悪かったと聞いているが仕方がないことだ。また、寄り道をしてしまった。本論に戻ろう。
さて、長谷寺の紫陽花についてふれたい。明月院の水色一色の紫陽花はプロ向きとすれば、ここの多士済々の紫陽花は素人向きといえる。素直に誰もが美しいと思える。紫陽花山を登ると、遠くに由比ヶ浜を見渡せる場所がある。静かな初夏の海だが、ここはむかし新田義貞と北条高時の激戦地だった。多くの屍が積まれたところだ。余談だが、高時の一番の家来、苅田式部大夫篤時(北条篤時)は、子供を北九州に逃すが、その子孫の一人が高倉健である。余談の余談だが高倉健は壇ふみを可愛がっている。ついでながら、私も壇ふみが好きだ。ついでのついでながら、阿川佐和子も好む。ふたりは漫才コンビのようだ。
話がまた横道にそれてしまった。元に戻そう。ここの紫陽花山の一番の景観は山を下りてきて、輪蔵の前の傾斜地を望む場所であろう。急斜面に立錐の余地もなく紫陽花が植えられ、色とりどりの花を一望にみることができる。ここにカメラマンが集中している。ポスターの写真もこのあたりから撮っている。私も撮ってみた。ついでながら、輪蔵についても説明しておこうと思う。ここの輪のような蔵に一切経が納めてあり、一回まわすと一切経を全部読んだことになるとういわれがある。もちろんお賽銭は必要である。余談だが、私も回してみた。そのとき後から声があった。お客さん、反対に回してるよ、それだと、一切、経を失うことになるよ、と。危ないところであった。
収玄寺の脇の小径を左に入る。御霊神社に至る御霊小路という。御霊神社は鎌倉権五郎を祭っている。頼朝の祖、八幡太郎義家の時代の武者だ。奥州の清原氏との戦いで、矢が右目を射抜いた。そのまま、馬で陣に引き返す途中、落馬し、同伴していた武者が、矢を抜いてやろうと顔に足をかけた。そのとき、矢に当って死ぬのなら、武者の本懐だが、顔に土足をかけられるのはあってよいことかと、拒絶したという。板東中にそのうわさが広まったという。
御霊神社の裏手に、小規模ながら、見逃せない紫陽花小径がある。静かにもの思いにふけるには格好の場所だ。白人の学生がひとり座って、紫陽花をいつまでも眺めていた。鳥居をくぐると、すぐ先が江ノ電の線路である。線路の両脇にこれまた紫陽花がたくさんの花を咲かせていた。どこもかしこも、紫陽花だらけだ。
先に進むと、大通りに出るが、その角にちから餅を売っているお店がある。妻はそこでそのお餅を買った。伊勢の赤福みたいな、あんこでくるんだお餅であった。それをほおばりながら、昨年の大雨の崖崩れ修理で見る影もなくなった成就院の参道を抜け、極楽寺に出た。お寺にも、駅前にも、もちろん紫陽花が我々を待っていてくれた。