北鎌倉駅を降り、円覚寺の山門前を通りすぎて、すぐのところに鎌倉古陶美術館があります。アジサイの咲く頃には是非寄りたいところです。美術館の庭に、100種類以上にものぼる、地植えの山あじさいが、いつも、近くの紫陽花寺よりも早く、山あじさい特有の、清楚でかつ多彩な花をいっぱい咲かせているのです。
そこで、尾形乾女さんの「花の美術展」が開催されていました。乾女さんは平成9年に98才でお亡くなりになっていますが、昭和50年代からこの美術館の場所でお仕事をされていました。あとでここの方に聞いたことですが、当時の建物は取り壊し、現在のは民家を移築したものだそうです。とても風情のある建物でしたので、乾女さんの仕事場にぴったりだなと思って聞いてみたのです。
普段でも、出窓の向こうの山あじさいが、まるで額縁のあじさいの絵のようにみえる部屋に、乾女さんの、花や子供を描いたほのぼのとした日本画の作品が並べられています。ボクはもともと日本画フアンですから、これらの作品はボクの目の中をすーっと通り抜けて、ボクの頭の片隅の秘密の小部屋に入ってきて、しばらく遊んでいってくれます。
今日は特別展として、乾女さんの作品が200点以上も展示されているわけですから、ボクの秘密の小部屋はいっぱいになってしまいましたけれど、いつものように、その小部屋は、なごやかで、ほのぼのとした空気に満ちていました。
子供の遊んでる姿、仏画などもありましたが、圧倒的に多いのが植物の絵です。百合、なでしこ、萩、沈丁花、テッセン、くちなし、梅、等々です。みんな良かったですが、乾女さんの80才(メモしてこなかったので正確ではありませんが、そのくらいの歳)作の「十二ヶ月屏風」はとくに気に入りました。各月の代表的な花が描かれているのです。カメラOKということでしたので、アップした写真を撮りました。
乾女さんは六代目尾形乾山の娘さんで、本来ですと7代目を継いでもいいのですが、女は窯場に出入り禁止の時代に育っていますから、若いときに陶芸の勉強ができず、女子美を出てからは、堅山南風の弟子になって日本画の勉強をしたのです。会場にも飾られている「楽人の妻」で帝展入選を果たし、日本画家として大成します。でも血は騒ぐのでしょうか、還暦を過ぎてから、北鎌倉の河村蜻山の明月窯で陶芸を学ぶようになります。この会場にも、たくさんの染め付け小壺や角皿、茶碗等が展示されていました。
鎌倉中央図書館に、乾女さんの自伝的エッセイ「蓮の実」があります。非売品で、乾女さんの、北鎌倉の住所と名前の印が押してありましたから、めったにみられない本です。この本で、乾女さんが、バーナードリーチや富本憲吉と親好があることを知りました。お二人は六代目の弟子で、免許皆伝の意味をもつ伝授書を渡されています。でもお二人とも、七代目は継承せず、独自の作風をもつ作家になっていったのです。六代目は「ワシの最高の作品はリーチさん富本さんと内嶋さん(北郎)だ」と言っていたそうです。
お父さんの20回忌に富本憲吉さんが来てくれ、染井のお墓の前で「奈美さん(彼女の本名)も立派な画家になりました、どうぞやすらかにお眠りください」という声を聞きました。太平洋戦争のさなか、女ひとりで心細い思いをしていたときのやさしい、うれしいお言葉に、思わず、涙がこみ上げてきて止まらなかったたそうです。涙目にうつる大欅の向こうの美しい夕映えと共にいつまでも忘れられなかったそうです。
ボクは美術館を出たあと、庭園と美術館をぐるっと巡っている、回廊のような小径に咲き誇る、山あじさいをゆっくりと観て回りました。なるほど、入り口の案内のポスターに書かれていたように、”あじさいの小径”だと思いました。小径のおわり近くで、常設の乾女さんコーナーの部屋の前に出ました。そして、今度は窓の外から、乾女さんがあのときみた夕映えのように美しく、なつかしく、ほのぼのとする作品をしばらく眺めていたのでした。
そこで、尾形乾女さんの「花の美術展」が開催されていました。乾女さんは平成9年に98才でお亡くなりになっていますが、昭和50年代からこの美術館の場所でお仕事をされていました。あとでここの方に聞いたことですが、当時の建物は取り壊し、現在のは民家を移築したものだそうです。とても風情のある建物でしたので、乾女さんの仕事場にぴったりだなと思って聞いてみたのです。
普段でも、出窓の向こうの山あじさいが、まるで額縁のあじさいの絵のようにみえる部屋に、乾女さんの、花や子供を描いたほのぼのとした日本画の作品が並べられています。ボクはもともと日本画フアンですから、これらの作品はボクの目の中をすーっと通り抜けて、ボクの頭の片隅の秘密の小部屋に入ってきて、しばらく遊んでいってくれます。
今日は特別展として、乾女さんの作品が200点以上も展示されているわけですから、ボクの秘密の小部屋はいっぱいになってしまいましたけれど、いつものように、その小部屋は、なごやかで、ほのぼのとした空気に満ちていました。
子供の遊んでる姿、仏画などもありましたが、圧倒的に多いのが植物の絵です。百合、なでしこ、萩、沈丁花、テッセン、くちなし、梅、等々です。みんな良かったですが、乾女さんの80才(メモしてこなかったので正確ではありませんが、そのくらいの歳)作の「十二ヶ月屏風」はとくに気に入りました。各月の代表的な花が描かれているのです。カメラOKということでしたので、アップした写真を撮りました。
乾女さんは六代目尾形乾山の娘さんで、本来ですと7代目を継いでもいいのですが、女は窯場に出入り禁止の時代に育っていますから、若いときに陶芸の勉強ができず、女子美を出てからは、堅山南風の弟子になって日本画の勉強をしたのです。会場にも飾られている「楽人の妻」で帝展入選を果たし、日本画家として大成します。でも血は騒ぐのでしょうか、還暦を過ぎてから、北鎌倉の河村蜻山の明月窯で陶芸を学ぶようになります。この会場にも、たくさんの染め付け小壺や角皿、茶碗等が展示されていました。
鎌倉中央図書館に、乾女さんの自伝的エッセイ「蓮の実」があります。非売品で、乾女さんの、北鎌倉の住所と名前の印が押してありましたから、めったにみられない本です。この本で、乾女さんが、バーナードリーチや富本憲吉と親好があることを知りました。お二人は六代目の弟子で、免許皆伝の意味をもつ伝授書を渡されています。でもお二人とも、七代目は継承せず、独自の作風をもつ作家になっていったのです。六代目は「ワシの最高の作品はリーチさん富本さんと内嶋さん(北郎)だ」と言っていたそうです。
お父さんの20回忌に富本憲吉さんが来てくれ、染井のお墓の前で「奈美さん(彼女の本名)も立派な画家になりました、どうぞやすらかにお眠りください」という声を聞きました。太平洋戦争のさなか、女ひとりで心細い思いをしていたときのやさしい、うれしいお言葉に、思わず、涙がこみ上げてきて止まらなかったたそうです。涙目にうつる大欅の向こうの美しい夕映えと共にいつまでも忘れられなかったそうです。
ボクは美術館を出たあと、庭園と美術館をぐるっと巡っている、回廊のような小径に咲き誇る、山あじさいをゆっくりと観て回りました。なるほど、入り口の案内のポスターに書かれていたように、”あじさいの小径”だと思いました。小径のおわり近くで、常設の乾女さんコーナーの部屋の前に出ました。そして、今度は窓の外から、乾女さんがあのときみた夕映えのように美しく、なつかしく、ほのぼのとする作品をしばらく眺めていたのでした。