気ままに

大船での気ままな生活日誌

健さんのルーツと宝戒寺

2007-06-16 10:01:28 | Weblog
宝戒寺は萩の寺として有名です。昨年の初秋、まだ白萩がようやく咲き始めた頃にこのお寺を訪れたとき、本堂の仏壇に高倉健さん名のお供えものがあるのに気づきました。以前も目にしたことがありましたので、高倉健さんはこのお寺とどういうご縁があるのか、ずっと気になっていました。それが、数日前、ある本を読みその謎が氷解したのです。

鎌倉中央図書館でみつけた、高倉健さんのエッセイ集「あなたに誉められたくて」にそのすべてが書かれていたのです。真ん中へんの「善光寺参り」というタイトルの文章の中にそれはありました。

健さんは30年以上、毎年善光寺参りを続けていました。熱心な信仰者というのではないのですが、お参りすると清々しい、すごくいい気分になれるのでついつい参拝してしまうのだそうです。そしてそのいい気分になれる理由が福岡女子大の前田先生からの手紙で分ったそうです。

あなたのご先祖に小田宅子(おだいえこ)という方がおられ、今から150年前、「東路日記」という紀行文を残されていますが、ご存じだったでしょうか、という手紙でした。筑前国の商家「小松屋」の主婦、小田宅子は親しい歌仲間3名と1月16日に東国への旅に出て、大阪までは舟でそのあと、奈良、伊勢神宮、名古屋、中山道、木曽路、善光寺へ、そして日光に回り、江戸を経て、再度善光寺へ、そして6月10日に故郷に戻るという大旅行をし、その旅日記を書いていたというのです。

高倉健さんの本名は小田であり、小田宅子は父方の何代前かのおばあさんにあたるということでした。健さんははじめ豆まきの招待がきっかけで始めた善光寺参りがこうして30年以上も気持ちよく続けられている理由が、先祖の方の二度の善光寺参りに結びついていることを知ったのでした。

本家の「小松屋」に残っている家系図の一番最初にある名前は苅田式部大夫篤時(北条篤時)でした。健さんは萬屋錦之助さんに奨められ、鎌倉霊園の墓地を購入したのですが、その帰りに何気なく、宝戒寺に参り、ご住職とお話したそうです。健さんは先祖の篤時の名前を出しますと、あっという顔をされ、過去帳を取り出し、そこに書かれている名前を指さしたそうです。

宝戒寺は北条氏当主の館のあったところで、高時のときに新田義貞に攻められ、そこは灰燼に帰しました。ここのすぐ近くに、高時以下部下が自害した、東勝寺跡があります。このとき有力部下の一人苅田式部大夫篤時も自害したのでした。宝戒寺はこれらの方々の怨念を鎮めるために建てられたお寺なのです。

篤時の子供は岡山へ、山口(大内氏)へと逃げのび、その後、北九州に落ち着き、子孫の方が両替商、小松屋を営み、成功され、前述の小田宅子さんや、現在の高倉健さんに繋がっていったのでした。

健さんはその日から、機会あるごとに宝戒寺を訪ね、お参りをされているのしょう。それで、ボクが何度か、健さんのお供え物をみかけたというわけなのです。

・・・
ボクは昨日、地元女子大の二階堂校舎で、市民講座「平家物語」を受講していました。木曾義仲の時代、まさに平家から源氏への分岐点の頃のお話でした。ボクは帰りに、何気なく(と言うより、引きつけられるように)閉門間近の宝戒寺に寄ったのでした。萩で有名なこのお寺も今の時期は、紫陽花が数本あるだけで参拝者も数人ほどでした。そして、ボクはいつものように、靴を脱いで、本堂に上がり、ご本尊と両隣の梵天・帝釈天像にお参りしました。そして立ち上がって帰ろうとしたそのとき、ちょっと目立たない場所に、ひとつのお供え物がありました。そこには、はっきりと、「高倉健」と書かれていたのです。

この本を読んでいた数日間、高倉健さんがボクの頭の中に居続けていましたので、きっと健さんがボクをここに寄らせてくれたんだ、と思いました。懸案の(楽しいかな?)謎が完全に解明され、ボクは満足感いっぱいで宝戒寺の山門を出たのでした。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする