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【Googleのロゴ】小津安二郎 生誕110周年

2013-12-12 01:46:48 | Google's logo
毎度のGoogleのロゴがこんなことに!



小津安二郎 生誕110周年!

もちろん存じ上げておりますとも!
日本を代表する巨匠! 世界の小津!
でも、意外と詳しいことは知らないかも・・・

ということで、毎度のWikipediaで調べてみた!

小津 安二郎(おづ やすじろう)は日本の映画監督・脚本家。
「小津調」と称される独特の映像世界で無声映画からトーキー、
白黒からカラー映画と世代を超えて優れた作品を次々に生み出し、
世界的にも高い評価を得ている。

「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、
代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、
女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。

父寅之助は伊勢商人「小津三家」の一つ、
小津与右衛門分家である新七家の六代目。

1916年小学校を卒業した小津は三重県立第四中学校
(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ進学し寄宿舎に入る。
このころ小津は初めて映画と出会った。
その中でも特に小津の心を動かした作品は、
1917年に公開されたアメリカ映画『シヴィリゼーション(英語版)』
(監督トーマス・H・インス(英語版))であった。

1922年三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験したが落第。
両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」と考え、
小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある
宮前尋常高等小学校(現存せず)に代用教員として赴任。
小津の教員生活はわずか一年で終わったが、
山村の児童たちに強烈な印象を残した。

映画への愛着を捨てられず一年で教員をやめて、
叔父が地所を貸していて縁のあった松竹キネマ蒲田撮影所に入社。
創設3年目の松竹キネマで撮影助手の仕事を得、月給30円を得た。

1939年内務省の指示で映画法が成立し、
映画を製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、
映画が国家に完全に統制されることになった。
小津は復帰第1作として『彼氏南京に行く』というシナリオを執筆したが、
これが映画法の事前検閲を通らず、映画化を断念した。
このシナリオは戦後に仕立て直されて『お茶漬の味』になる。
小津の作品ですら検閲ではねられたこの事件は、映画界に衝撃を与えた。

小津はシンガポールで終戦を迎えるが、
同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができた。
その中には『嵐が丘』、『北西への道』、『レベッカ』、『わが谷は緑なりき』、
『ファンタジア』、『風と共に去りぬ』、『市民ケーン』などが含まれていた。

1952年シナリオが完成せず、
仕方なく戦前検閲ではねられた『お茶漬の味』を改稿して公開した。
『なんとか一年一作を守るために糊塗したもので後味が悪い』と率直に述べた。
このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが
『東京物語』(1953年(昭和28年))である。
原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は、
小津の映画人生の集大成であり代表作となった。

1963年4月にがんセンターで手術を受けた。
10月に東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院、
12月12日自身の還暦の日、午後12時40分に逝去。
60歳没、生没同日であった。

北鎌倉円覚寺の墓碑にはただ一字「無」と彫られている。

とのこと・・・ ちょっと長くなっちゃった(o´ェ`o)ゞ
Wikipediaはまだまだ情報あるけど、
生い立ちだけ載せてみた! 続きはWikipediaで!

小津監督は誕生日に亡くなってしまったんだね、
誕生日に亡くなる人って意外と多い気がする・・・

小津監督作品は何本見たんだろ?
『東京物語』『秋刀魚の味』『小早川家の秋』は見た!
『お茶漬けの味』も見た気がするけど覚えてない
機会があったらいろいろ見てみよう!

ちなみに検索画面のロゴも同じ『東京物語』



お誕生日おめでとうございます!


コメント
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