【tv】100分de名著「モモ」(第2回)
時間を奪う「灰色の男たち」
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。8月はミヒャエル・エンデの「モモ」(Wikipedia)で、今回はその第2回。講師は臨床心理学者・京都大学教授の河合俊雄氏。セラピストの視点で読み解いていく。第1回の記事はコチラ
時間泥棒「灰色の男たち」が現れ、時間を節約するように人々を誘惑するが、節約した時間は盗まれていく。どうやって? 目的は?
朗読:のん(朗読部分については、印象的な部分のみの抜粋もしくは要約となっております🙇)
朗読:あいてがそれと気のつくずっとまえから、すっかり調べあげていました。たとえば床屋のフージー氏の場合を見てみましょう。
店の評判も良く、お金持ちではないものの、それなりに幸せに暮らしていたフージーさん。ある雨の日、お客を待ちながら外を眺めていた時ふと思う。
朗読:死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、人にわすれられてしまうんだ。
何もかもがつまらない、不意に虚無におそわれた瞬間、店に葉巻をくゆらせた男が入って来た。男は鏡の前に腰をおろすと言う。
わたくしは時間貯蓄銀行から来ました。あなたはわたくしどもの銀行に口座を開きたいとお考えですね。
突然のことに驚くフージーさんとは逆に、男はすっかり調べ上げている様子だった。
朗読:ようするにあなたがひつようとしているのは時間だ。そうでしょう?
男はすかさず、これまでの人生で家事や趣味、家族とのおしゃべりなどでフージーさんが浪費してきた時間を計算していき、フージーさんの残りの時間が0であることを告げ、今すぐ時間を節約して貯蓄することをすすめる。
この後、フージーさんは時間を節約しはじめるが・・・
時間貯蓄銀行と名乗る灰色の男たちは実は人間が節約した時間を盗む泥棒。物語だけのことだと思うが、現実にも起きている。
例えば、東京に来ていた会議をオンラインにすると、直ぐ後に勤め先での会議ができて、その後授業もできる。以前ならば東京出張で1日が終わり。でも、これって時間を節約したのか? 節約した時間はいつの間にかなくなるというのはとても合っている。
伊集院光氏:まさに現代の話ですね。便利なものが出来て生活に余裕ができるはずだったけど、一向にそうならない。ケータイができて誰とでも連絡が取れるようになり、便利になったようですけど、ケータイのお話し中とか電話に出ないって、なんであんなに腹立つんだって?
灰色の男たちは文明避難的な部分。時間貯蓄家たちは・・・
けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。
安部みちこアナウンサー:自分のことを言われている気がする😅
伊集院光氏:ホントそうですよねー😅 スマホに出ない人へのあの怒り!
フージーさんというのも時間を節約してどんどん怒りっぽくなっていって、ハサミを入れるたびにあった充実感や、お客さんと会話を楽しむとか、そういう豊かさがなくなり心が貧しくなっていった。
あきらかにエンデは"現代"の人たちが、時間を節約しようとするあまり、"時間"を失っているってことを言いたいんだろうなと思っていた。まぁ、誰でも気づくとは思うけれど😅 失った"時間"のどれもが"豊かな時間"だったわけではないだろうし、例えばオンライン会議が出来ることは、悪い面だけとは思わない。現に、フージーさんは"時間"をたくさん持っていたために、自分に対してネガティブな考えを持ってしまい、そこが灰色の男のつけ入る隙になってしまっているわけで。とはいえ、そういう面も含めて"時間"は必要であると言いたいのだとは思うけれど。でも、まさに"現代"の自分たちも感じることに、既にエンデは危機感を持っていたというのはスゴイなと思う。
時間の節約を始めた大人たちはモモの住む廃墟に来なくなり、モモの元には子どもたちが来るようになったが、子どもたちにも変化があった。
リモコンなど完成された高価なオモチャでしか遊べない。例えば木をロケットに見立てたり、チャンバラしたりというイマジネーションが失われていた。遊ぶのではなく遊ばされている。
伊集院光氏:例えばごっこ遊びでもコスプレ衣装が完璧だから、それ以外の役に途中からなることがない。そういう意味ではこれが書かれた当時よりも急カーブで進んでいる。
子どもたちから親が相手をしてくれないと伝えられたモモは町の異変に気づく。
安部みちこアナウンサー:今とピッタリ。動画を見せていればいい。
うーん。完成された物でしか遊べなくなってしまい、結果イマジネーションが失われていると言うのは、確かにそうだろうと思うけど、完成された物で遊んだ子どもたち全てがイマジネーションが無くなってるわけでもないしなぁ🤔 既に出来たものを与えられば、それはあって当たり前の物であって、そこからまたイマジネーションが広がる場合もあるんじゃないのかな? まぁ、自分は子供がいないので偉そうなことは言えないけど😅 エンデや河合先生に異論を唱えているわけではないし、問題提起的に描いているわけなので全然OKです!
モモが訪ねて行くと、大人たちはまた来ると言うが、灰色の男たちは大人たちを助けようとするモモを邪魔に思う。
映画『モモ』(1986年)より
ある日、廃墟に喋る人形(ビビガール)が置かれていた。灰色の男たちのしわざ。同じことしか喋らない人形にモモは退屈する。困り果てたモモの前に現れたのは灰色の男。さらに人形をモモに与え・・・
「つまらん友達はいらないだろう?」
モモが否定すると、本当に友だちを大事に思うなら我々に協力しろとモモを誘導する。モモは町の人たちの変化にこの男たちが関係しているのかもと気づく。
勇気をふるいおこし男と向き合う。すると男は動揺し、自らの正体をしゃべりはじめる。
朗読:人間の節約した時間は、人間の手には残らない。
伊集院光氏:スゴイ! モモの特殊能力! これが聞く力。モモが本当に聞いてくれるので思わぬことを話してしまう。
今回の場合は、モモは灰色の男から真実を聞き出したいと思っていたとは思うけれど、基本モモは人の秘密を聞き出してやろうとか思っていないんだよね。受け皿としてとても優れた能力を持っているんだと思う。先入観もないし、構えていない。だから、つい話してしまう。それはモモが豊かだからなのでしょう。
モモは灰色の男が話したことを親友のベッポとジジに報告するとジジがデモ行進をしようと提案。プラカードや横断幕を用意して町中を練り歩くも失敗に終わる。
失敗の原因は2つ
①ジジは自分が英雄になれるという浅い思い付きで行動した
②行動が早過ぎて機が熟していない
しかし、失敗も大事! ジジの方法では灰色の男たちに立ち向かえないことが読者に分かる。
そしてベッポにスポットが当たり物語は次の展開へ進む。
伊集院光氏:じゃあ、この失敗の部分も切っちゃって時間貯金しちゃダメなんですね? この話はここの失敗も大事?
この失敗がこの後生かされるのは②の方。そして①でジジは灰色の男たちに時間を奪われてしまう。この2点もエンデが言いたいことなのでしょう。ジジが自分が英雄になりたいと思うことは別に悪いことではないのだけど、何か大きなことを成し遂げる時、私利私欲を失くして当たらなければならないということかと。モモが豊かであることは、私利私欲がないからでもあると思うし。
ところで、モモは映画化されていたのね Wikipediaによるとなんと、マイスター・ホラ役で映画監督のジョン・ヒューストンが出演している! しかも作者のミヒャエル・エンデが本人役で出ている!😲 これは見たい!
ベッポは町のはずれでモモに本当のことを話してしまった灰色の男が処刑されるのを目撃してしまう。
同じころモモのもとに新たな導き手が登場!
"ツイテオイデ"という文字を甲羅に光らせたカメ🐢 モモはその後について行った。自分たちの秘密を知るモモを放っておけない灰色の男たち。必死で探す彼らのもとにモモの目撃情報が入る。
カメに導かれ見知らぬ街を歩くモモ。その先に現れたのは「さかさま小路」。前に行こうとすると進めず、後ろ向きに歩くと進めるという不思議な道。その突き当りにあったのは「どこにもない家」 カメをモモのとこへ送ったマイスター・ホラのいる時間の国。
伊集院光氏:読者からしたら早く辿り着きたい目的地なんだけど、まぁ非効率的な😅 喋れずにじんわり甲羅に言葉が浮かび上がるカメっていう。
古代中国にカメの甲羅を使った占いがあった。それがこの物語ではもう少し現実的に文字が浮かび上がるとなっているが、象徴的な意味としては同じなのではないかと思う。
現実世界における三位一体:ベッポ - モモ - ジジ
深層心理における三位一体:マイスター・ホラ ー モモ -カシオペイア
マイスター・ホラは時間を司る知恵のある老人。自分は動けないので動物や少女とつながる。新しい深層心理。心の奥底を語るフェーズへ入った。
伊集院光氏:一気にメンバー交代もあり舞台も変わっている。
ちなみに、箱庭療法(砂箱の中のミニチュアでイメージ表現を行う心理療法)で、摂食障害の人が作る箱庭に「少女と老人と犬」がしばしば登場すると河合隼雄(Wikipedia)は指摘。現代の病である摂食障害を癒す中で登場する組み合わせと似た3人組が「モモ」に登場。物語が本質をとらえているところがあるんじゃないか。
"どこにもない"とか、"さかさま"とか否定が目立つ。究極の場所に至る過程に「否定」があるのがドイツ的。ヘーゲル哲学やドイツ神秘主義でも否定するプロセスが大事。時間や心には否定を通じてしか近づけないのかも。
Wikipedia情報だけでは、エンデが心理学やドイツ哲学、ドイツ神秘主義を学んだのかは分からない。でも、学んでいないということにはならないので、きっと何かしらの影響を受けているのではないかな🤔 単純に自分が知識不足なだけで、常識なのかもしれないけれど😅 三位一体を意識ているのは間違いないということでしょうかね。余談だけど、「はてしない物語」の翻訳をした佐藤真理子さんとご結婚されているのね?😲
モモをとり逃した灰色の男たちは幹部会議を開く。ホラのもとから戻って来た時、モモは大きな力を持つはず。男たちはおののく。そんな中1人の男が言う。
映画『モモ』より
自分たちが見つけられなかった道を見つけた。チャンスだ。ホラのもとに案内させるため、男たちはモモが大切にしているともだちを狙うことにする。
朗読:モモはともだちをとりもどすためとあれば、かならずやわれわれにあの道をおしえるでありましょう!
《灰色の男たちの矛盾》
灰色の男たちはとても重要なことを言っている。真実は自分たちだけが持っていてもダメで、共有されないと意味がない。灰色の男たちは共有することが豊かな時間を作ることを知っている。だからこそ潰そうとしている。灰色の男たちは敵だが大事なことを教えてくれる。
伊集院光氏:真実は共有されないと意味がない。映画の内容が分かりましたという意味よりは、この映画をどう思ったという方に実は・・・ 同時に見なくても自分は通算1000本見ましたってことの方に何か意味を持ってしまうというか・・・
通算1000本はまさに灰色の男のロジック。数を見ることに意味があるっていう。
伊集院光氏:一週間で何本見れたみたいな話しになってくると・・・
そうなってくると完全に灰色の男のロジック。それを本当に味わうとか、共有するとかそこに心の豊かさがあるということがポイント
伊集院光氏:やっぱり先生に読み解いてもらうと深いなと刺さるところがいっぱいある。
確かに映画好きの人の中にも何本見たかってことにこだわっている人はいる。自分も月ごとの鑑賞記録記事を書いてるし、そこには見た本数も書いてるので、こだわってなくはないけど、本数を見ることよりも何を見たかが重要だとは思っている。とはいえ、映画鑑賞は趣味なので、文学作品や哲学作品ばかりでは辛くなってしまう。そして、意味のある作品を見なければならないと思い込むのもロジックだよね😅
そして本数にこだわっているのが悪いってことでもないと思う。本数にこだわって内容を理解しないのは意味がないということなのかな。それは難しい作品ばかり見ろということとも違うと思う。コメディを見るのだって内容を理解してなければ笑えないしね。
真実は共有されないと意味がないというのは真理だし、逆に共有されてしまった虚偽が真実として独り歩きしてしまうこともある。それに打ち勝つには真実を共有するしかない。SNSの使い方というのが一番問われる部分なのかなと思う。やっぱり奥が深いわ!
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