【tv】100分de名著「モモ」(第1回)
モモは心の中にいる!
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。8月はミヒャエル・エンデの「モモ」(Wikipedia)で、今回はその第1回。講師は臨床心理学者・京都大学教授の河合俊雄氏。セラピストの視点で読み解いていく。
モモは身寄りがなく外見もユニークな女の子。話すことも面白い。時間と物語の豊かさとは?
モモという物語は豊かな時間とはどういうものかを具体的に示してくれるが、その豊かさを潰そうとする敵が現れて来る。その敵が出て来ることにより豊かさがより明らかになってくるという話。時間をかけて読まないと「豊かさ」は分からない。
ミヒャエル・エンデについて
父親は画家のエドガー・エンデ。友人の依頼で書き始めた「ジム・ボタン シリーズ」が大ヒットし、世界に知られる児童文学者となる。「モモ」の他に映画化された「はてしない物語」(『ネバー・エンディング・ストーリー』1985年日本公開)がある。
伊集院光氏:『ネバー・エンディング・ストーリー』が大流行したのが(自分が)高校生もしくは、この仕事を始めたくらい。「モモ」は名前は知っていた。ビックリしたのは「ジム・ボタン」というのは小学校低学年の頃にアニメ化されたものを見て、その3つの作者が自分の中で繋がっていなかった。
エンデ作品を知ったきっかけは『ネバー・エンディング・ストーリー』 これが本当に面白くて原作本を買ってもらった。その時、弟が買ってもらったのが「モモ」 「はてしない物語」は読んだけど「モモ」は気になりつつ読んでなかった😅 伊集院光氏がラジオで「100分de名著」で取り上げたので、今音読していると話していて、そういえば家にあったはず!となり、読んでみた。番組を見てから読むか、読んでから見るか悩んだのだけど、先入観なしで読みたかったので先に読むことに。なので、答え合わせ的な感じ。
エンデは1971年南イタリアに移住し15年住む。イタリアでは物事が全く時間通りに進まない。例えば学会でも時間通りに集まったのはイタリア人以外。でもイタリア人には豊かな暮らしをしているように見える。
伊集院光氏:ドイツ生まれのエンデがイタリアで過ごすことと、時間はどうあるべきかはピタッと行くわけですね?
なるほど! 「モモ」の舞台は明言されていないけれど、登場人物の名前がジジとかベッポとかイタリアっぽいんだよね。やっぱりイタリアの影響は受けているってことなのね🤔
全然違う2つの時間がある。また、エンデは日本にも関心が高かった。電車の発車が秒単位で決まっているが、同時に前近代の感覚も残っている。全てのものに魂がある感覚。悠久の時間というものが我々の感覚の中にもある。それがエンデにとっておもしろかったのではないか?
朗読:のん(朗読部分については、印象的な部分のみの抜粋もしくは要約となっております🙇)
はるか昔の大都市の様子が語られる。当時の人々は大きな円形劇場で演じられる芝居が大好きだった。
朗読:舞台のうえで演じられるただの芝居にすぎない人生の方が、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいと思えてくる。みんなはこのもうひつの現実に耳をかたむけることをこよなく愛していた。
それから幾世紀も時が過ぎると高いビルディング建ち、電車が走り回るようになった。そんな都会の片隅にある円形劇場の廃墟に1人の少女が住み着いたという噂が広がる。少女の名前はモモ。小さくて髪の毛はモジャモジャ。つぎはぎだらけのスカートにダブダブの上着。舞台の下の崩れかけた小部屋を住処にしていた。
ある昼下がり近くに住む人たちがやって来て、アレコレ聞き出そうとする。
朗読:モモは遠くから来たと言い、モモという名前も自分でつけたし、生まれたのがいつかも分からないと答える
2つの時代から始まる物語
円形劇場がにぎわっていた「はるかむかし」
数世紀後
廃墟となった円形劇場にモモが住み着く「いま」
明らかに対比。物語が「現実」である豊かな時間が流れていた「はるかむかし」と「いま」は変わってしまったという設定から始まる。
伊集院光氏:昔々にあったことを覚えておいて下さいね。で、時間が経って今ですよっていうのは、いわゆる「桃太郎」の"むかしむかし"とはちょっと違う?
昔とは区別された今に生きているモモという存在とは?
民俗学で言うストレンジャー。ストレンジャーは神の場合もあるし、山姥の場合もある。聖者でもあり卑しいものでもある。座敷童が一番ちかい? モモは豊かさをもたらしてくれる。座敷童もいると豊かになる。
”いつでもあたしはもういたもの”というセリフ。はるか昔からずっといて変わらない存在だということ? いにしえの時の復活があるのでは?
伊集院光氏:むかしむかしから一挙に廃墟になるまでの流れは感じさせているのに、その中でモモはどこで生まれたのかに関してはボヤかしているのがおもしろい。
ストレンジャーは老人が多いが、少女であることは未来を感じさせる。単にいにしえのものだけではないのだというメッセージが感じられる。
文字だと伝わらないのだけど、物語の説明部分には平面的なタッチのアニメーションが流れている。それによるとモモたちの「いま」は、自分がイメージしていたより近代っぽい。1973年に刊行されているけど、舞台となっているのは19世紀くらいをイメージしてた。なんでそうだと思ったんだろう? 孤児のモモをみんなで面倒みようという結論に達する感じが、「いま」の感覚と違うと感じたからかも?🤔
町の人たちはモモの部屋を住みやすく整え、食べ物を分けてくれた。親切な人に囲まれてモモは幸せ。しかし、それ以上に彼女を助ける人々がモモに感謝していた。
朗読:小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。ほんとうに聞くことのできるひとはめったにいないものです。
モモに話を聞いてもらうと自分の中に解決策が自然と浮かんでくる。
朗読:いや、おれはおれなんだ。世界じゅうにおれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。こういうふうにモモは人の話しが聞けたのです。
モモは徹底して受け身で話を聞く。すると話している人は自分をモモに話すことができる。すると自分なりの考えや解決策が生まれて来る。カウンセラーの仕事と似ている。聞いているだけというのはなかなか難しく、どうしても否定したり自分の話をしたりしてしまい、人の話を受け取るということは難しい。
伊集院光氏:グッと感じたところはメディア側は話を聞かせる側だと思っていて、いろんな話をすると喜ぶと思い込んでいるが、実は今の世の中、皆聞いて欲しいのだ。なのでテレビ離れして自分が発信側に行くのは分かる。モモの能力を取り戻さないとと気づいて、今いったん家に帰りたい😅
人に相談する時って、実は自分の中に答えを持っているんだよね。それを聞いて後押しして欲しいと無意識で思っているから話すのか、単純に話しているうちに答えに気づているのか?🤔 この部分では後者なのでしょうね。
受け身なのはモモが空っぽだからできたのではない。すごい豊かさを持っていたことを示すシーンがある。みんなが去った円形劇場で1人になるシーン。
こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞いている大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれども壮大な、ふしぎと心にしみいる言葉が聞こえてくるように思えるのです。
古い円形劇場の石のすり鉢状の中に座っている。頭の上は星がちりばめられた空の円天井。曼荼羅みたいな感じ。モモの心の宇宙であり、モモの心が満ち足りているから相手の話を聞くことが出来たのだとこのシーンから分かる。
伊集院光氏:形状的に地球なり町なりの円形劇場が耳であり、その耳の中に住んでいるような感じ。聞く存在であり、それを幸せだと思っている感じ。
モモはその豊かな世界とわれわれの間を橋渡ししてくれる。モモが聞いてくれることによって自分の中もあるのではないか?
この後モモは子どもから大人まで町の人たちと友情を築き、親友と呼べる存在もできる。
モモの2人の親友はあらゆる意味で正反対。夢見るような目をし器量よしの若者ジジは自称観光ガイド。観光客を見つけては口から出まかせの話をしてお金をもらっていた。ジジにはいつか有名になってお金持ちになりたいという夢があった。
一方、口下手な老人ベッポの仕事は地味な道路掃除。毎日夜の明けないうちに仕事に向かう。仕事中ベッポの心には言葉で表現できない深い考えが浮かんでくることがあった。モモと出会ってからその考えはようやく言葉になる。
朗読:つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。
「いま」を生きる ~ベッポの禅的時間~
ベッポは近代意識が出来る前の豊かさ、「いま」が充実している世界に生きている。禅の修行に似ている。悟りを目標に置いてはダメで、目の前の庭の掃除から修行を始める。「いまここが満ち足りる」という豊かな時間。時計で計算できる時間と真逆。いにしえの時間感覚と豊かさ。
自称観光ガイドのジジ。ファンタジーとかイマジネーションの豊かさ。モモ、ベッポ、ジジはちょっとずつ時間の豊かさを体現している3人。3人の設定で心理学で好まれるのは父親、母親、子どもというパターン。家族とは関係ない3人組が「モモ」の世界。
伊集院光氏:ベッポとジジは仲が悪かったりはしない?
ベッポとジジの仲が良いところがポイント。モモが入っているところがおさまりがいい。
伊集院光氏:よくできた午前中のAMラジオ番組! ジジ:パーソナリティ モモ:アシスタント ベッポ:リスナーの職人 理想の形。職人さんから教わることがあり、そう思ったらいい勉強になる。
ユングは「三位一体」的な調和に第4の存在が加わることが重要と指摘。3人の調和した世界に「灰色の男」が登場し物語が動く。
モモは町の人たちが自分をどうするかって話をしている時に、自分は一人で大丈夫だから円形劇場で暮らしたいって言うんだよね。そう言われたからといって、「いま」が思っていたより近代なのだとすれば、それなら円形劇場に住まわせてみんなで見守ろうって結論はあり得ないわけだけど、そのツッコミはなしで!っていうことじゃなくて、それを受け入れられてしまう説得力がモモにはある。なので伊集院氏の例えのように、ベッポとジジとの関係も対等な感じがとてもよく分かる。
灰色の男たちのたくらみが描かれるのは次回から。初登場シーンは・・・
楽しく語らうモモとベッポとジジ。その背景で灰色の男たちが動き出す気配が描かれる。
朗読:その影は三人の友情にばかりではありません。この地方全体にしのびよっていました。
灰色の男たちを見た時モモにどんなことが起きる?
モモは寒気を感じる。体が感じるというか、灰色の男たちが怪しいことを感じる。そんな寒気程度だったので、灰色の男たちについては次回からのお楽しみ。
この後に物語の豊かさが感じられるシーンがある。ジジがモモのために作った恋愛物語を語る。ジジはいろんな話をするが、モモにだけする話がある。物語は必ず誰かに語られる必要がある。だから心理療法も意味がある。人に語ることによって初めて真実になり、その話から解放される。
2人でシェアすることはとても大事。今、SNSなどで一方的な発信になりがち。そういうところに灰色の男たちがつけ込んでくるのかもしれない。
伊集院光氏:今の時代は皆自分にとってのモモを探しているんだと思う。SNSでも喋りたいことがいっぱいあって、モモ的才能がある人がSNS上にそういない。
だからみんなが求めていて、実はモモって自分の中にいるんだということを示してくれる。
伊集院光氏:なるほど。自分の中にいるモモが見つかりづらくはなっているでしょうね。いろんな事を一夜目で思いました。感じることがとても多い。
自分はブログ、ツイッター、インスタグラムをやっているけど、それぞれ使い分けている感じ。それぞれ投稿しているけれど、ツイッターは情報を得るため、インスタは単純に楽しむため。ツイッターはリアルで繋がっている人もいるので、逆に本音が言えない部分もある。全世界に発信しちゃってるしね😅 インスタは癒されたいので、リアル友達とは全く繋がっていないし、そこで友達を作ろうとも思わない。自分の本音が一番出てるのはブログかなぁ。ブログの方が一方的に発信できる気がするから。聞いて聞いて!と思って書いてるわけじゃないけど、反応があればやっぱりうれしい。
モモ的才能はみんな持ってるかもしれないけれど、間髪入れずに反応を返さなければならないと思い込んでいる部分はあるのかもしれない。ただ、誰かの意見やアドバイスをもらいたい時もあるし、単純に話を聞いて欲しい時もある。反応を返した方がいいのは前者の方で、後者には余計なことなんだよね。その辺りの見極めがなかなか難しい。でも、基本はじっくり聞いて求められたら回答するのが一番いい形なのかも🤔 勉強になった。
100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50 Eテレ
また、「毎度のGoogleのロゴ」も見てくださりありがとうございます!
「モモ」で卒論を書かれたのですね!
そうですね! 今回初めて「モモ」を読んで、もう少し多感な頃に読みたかったと思いました😅
今読むと分かることもたくさんあるのですが、純粋な心で読んだらまた違った人生だったかも?
貴重なお話ありがとうございました✨
2回目の放送をメモ取りながら見終わりましたので、近々記事を書く予定です。
頑張ります!
ときどき「毎度のGoogleロゴ」を拝見しております。
「100分で名著」の存在は知ってましたが、なかなか視聴の機会がなくて……でも、今回は思わずぜんぶ録画してしまいました。というのも、私はン十年前に大学の卒論で『モモ』をテーマにしたんです。そのころ新進気鋭の作家だったエンデをゼミの先生がとても高く評価していて、そのみずみずしい筆致に感動したことを今回思いだしました。エンデの作品はどれも想像力あふれるすばらしいものですが、やはり『モモ』は別格です。いまでも多くの人に読み継がれていることをとても嬉しく思いました。
またお邪魔しますね。ブログ更新楽しみにしています。