■ 今回の原発震災は、自分にとって何だったのか?
それら疑問に答える記事が、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック氏へのインタヴューとして今朝の朝刊に掲載されていた。
問題発生の原因や本質、今後のとるべき途など、なるほどと思われる内容が記載されていたので下記に抜粋、紹介しました。
『 (1) 今日の世界にとって福島の事故はどんな意味を持つのか?
― 人間自身が作り出し、その被害の拡がりに社会的、地理的、時間的に限界がない大災害です。
通常の事故は、深刻であっても、被害は一定の場所、一定の時間、一定の社会グループに限定される。
しかし、原発事故はそうではない。新しいタイプのリスクです。
気候変動やグローバル化した金融市場なども、同じような性格を持ちます。
・なぜ、そのようなリスクが拡がるのか?
― 近代社会では、人間の意思決定がリスクを生み出しているからです。
・日本では、多くの政治家や経済人が、あれは想定を超えた規模の天災が原因だ、といっているが?
― 間違った考えです。
地震が起きる場所に原子力施設を建設するというのは、政府であれ企業であれ、人間が決めたことです。
― 近代化の勝利そのものが、私たちに制御できない結果を生み出しているのです。
そして、それついてだれも責任を取らない、組織化された無責任システムができあがっている。こんな状態は変えなければいけません。
(2) 政府、産業界や専門家に判断独占させず市民の関与をすすめよ!
・ 近年、温暖化問題への解決策として再び原子力への注目が集まったが?
― 原子力依存か気候変動か、というのは忌まわしい二者択一です。
温暖化が大きなリスクであることを大義名分に『環境に優しい』原子力が必要だという主張は間違いです。
もし長期的に責任ある政策を望むのであれば、私たちは制御不能な結果をもたらす温暖化も原発も避けなければなりません。
ドイツでは、政府に原子力からも温暖化からも抜け出すタイムテーブルを示すよう求めることになるでしょう。
・ 第2次大戦後、日本の政治指導者たちは原子力を国家再建の柱の一つと考えました。しかし福島の事故では、それが国家にとって脅威ともなっている。
― 昨年、広島の平和記念資料館を訪れた。
原爆がどんな結果をもたらすかを知り、世界の良心の声となって核兵器廃絶を呼びかけながら、どうして日本が、原子力に投資し原発を建設してきたのか。
疑問に感じました。
― 今、ドイツではこういう考えが広まっています。
他国が原子力にこだわるなら、むしろ、それは、ドイルが新しい代替エネルギー市場で支配権を確立するチャンスだ、と。今は、この未来の市場の風を感じるときではないでしょうか。
自然エネルギーへの投資は、国民にとっても経済にとっても大きな突破口になる。
・ 制御不能なリスクは退けなければならないといっても、これまでそれを受け入れてきた政治家たちに期待できるか?
― ドイツには環境問題について強い市民社会、市民運動があります。
緑の党もそこから生まれました。
近代テクノロジーがもたらす問題を広く見える形にするには民主主義が必要だけれど、市民運動がないと、産業界と政府の間に強い直接的な結びつきができる。
そこには市民は不在で透明性にも欠け、意思決定は両者の密接な連携のもとに行われてしまいます。
しかし、市民社会が関われば、政治を開放できます。
― 産業界や専門家たちにいかにして責任を持たせられるか。
いかにして透明にできるか。
いかにして市民参加を組織できるか。
そこがポイントです。
産業界や技術的な専門家は、今まで、何がリスクで何がリスクではないのか、決定する権限を独占してきた。彼らはふつうの市民がそこに関与するのを望まなかった。 』
以上が抜粋内容ですが、
今回の事故が起きるまで、原発のほんとうのことは知らなかったし(無知)、
知ろうともしていなかった(安全面の情報だけ与えられていて、そう思い込んでいたのと、
現役中は、仕事で忙しく、あまり深く追求するゆとりが無かったですね―結果的に無関心)。
3月11日以降は、それではいけないと思いましたね。
でき得る限り無関心、無知であってはいけない、公の情報をうのみにしないで自身で考え判断したいですね。
結局は、われわれ自身の命も、われわれの国土も、国民ひとり一人の力で守るしかないということを、あらためて感じさせられました。
追記: 昨夜、福島第一原発の1号機がメルトダウンしていたとの報道が流れた。
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