近畿三十六不動めぐりは竹田の北向不動院で終わりだが、この一帯は歴史の一場面で登場するところである。それが平安末期の院政時代である。院政として上皇自らが権力を握ったのが白河上皇。以後、鳥羽上皇や後白河上皇など、摂関政治の衰えと武家政権の誕生までの間、大きな存在感を示したところで、数年前の大河ドラマの平清盛でも、この辺りの泥々した人間関係が描かれていた。
この院政の舞台となったのが鳥羽殿、鳥羽離宮であり、まさに北向不動院が建っているのもその中である。当時の地形は鴨川、桂川の流れがもっと大きく、今は普通に宅地や田畑になっているところは川の中だったりする。城南宮などは目の前に川というか、川の流れでできた巨大な池に面していたとされている。

竹田駅から不動院まで歩く途中、隣接する形で安楽寿院というのがある。ここは鳥羽離宮の東の端に阿弥陀堂を建てたのが由来である。本尊の阿弥陀如来は柵で仕切られた収蔵庫に安置されていて、気軽にお参りできるのは手前の大師堂と阿弥陀堂である。一時は寺の領地も多く持っていたが、南北朝や戦国の戦乱で勢力を縮小した。




朝の冷え込みで境内の通路も一部凍結している。猫が2匹、寒い中お堂の縁で丸くなっている。人に慣れているのか、触っても逃げようとしない。ふと見るとあちこちに猫にエサを与えないようにとの注意書きがある。
安楽寿院のすぐ南に近衛天皇陵であるというので行くと、そこには多宝塔がある。天皇陵というと、百舌鳥・古市古墳群にあるような前方後円墳で堀に囲まれたものをイメージするが、ここは多宝塔で、さらに現在の建物は江戸初期に豊臣秀頼の手で再建されたものという。まあ、古墳時代とされる頃が特殊だったのか、後世になり浄土教も広まる中でその形式で祀られたのか、天皇陵というものの見方がいろいろ広がりそうである。

安楽寿院にあるのが鳥羽天皇陵。こちらは屋敷風の門の後ろに小さなお堂が見える。天皇としての知名度なら鳥羽のほうが高いと思うが、近衛のほうが多宝塔で目立っているように見える。まあ、どちらも安楽寿院の一部のようなものと言ってもいいかと思う。この鳥羽天皇陵に近いところに北向不動院がある。つまりこの辺り一帯が鳥羽離宮の一部で、院政の時に建てられたお堂が寺となり、当時の天皇たちも自分たちの土地?に葬られたということになるのかな。
先の記事の通り北向不動院にお参りした後、西に向かう。すぐそばの阪神高速京都線の高架下を渡ったところにあるのが白河天皇陵である。まあ、かつての院政の舞台ではあるが、今は高速道路と高架下のクルマの量が多いところである。さぞやかましいことかもしれない。白河上皇は、自分の思いのままにならないものは3つ・・・鴨川の水、サイコロの目、山法師・・と挙げていたが、今だとクルマの音もそこに入るのかなと思ったりする。
ここまで来ると城南宮も近いので歩く。気づくと、白河天皇陵の西側にはいわゆる「お二人様専用ホテル」がこれでもかと並ぶ。通りに面しているだけで5~6軒あり、通りを入るとまだまだあるようだ。改めて地図を見ると、少し行くと名神高速の京都南インターがある。インターの近くにこの手のホテルが並ぶのはよくあることだが、京都南が特に多いのは何か背景があるのだろうか。どなたか詳しい方がいれば教えていただきたい。



さて、ホテル街から南に行くと城南宮に着く。鳥居には「城南離宮」の額があり、院政時代の名残を表している。元々この地に神社はあったそうだが、平安京ができてからは都の南を守る神社として位置付けられ、院政時代にいろいろ造営された。貴族たちの熊野詣での際には城南宮で方違のお籠りをすることにもなっていたそうである。


現在は厄除け祈願の神社として参拝する人も多い。本殿は修復工事の最中でフェンスに覆われているが、拝殿には次々と祈祷を受ける人たちが入って行く。






城南宮は神社だけでなく庭園も有名である。昔の貴族の遊びの一つ「曲水の宴」が再現されているのもこの庭である。パンフレットには季節の花が美しく咲く写真が飾られているが、残念ながら1月の時季、しかもこの日は冷え込みも厳しく、花というものはほぼ何も咲いていない。季節に左右されないのは、かつての離宮のものを再現したという枯山水くらいだろうか。
その庭園の一角にギャラリーがあり、「明治元年」に関する絵画や資料の展示会が行われていた。明治元年・・・1868年。そして今年は2018年、いわゆる「明治150年」に当たる。日本が近代国家に向けて歩んだ明治の初めということで、一つ近代を見直そうとの行事やイベントがあちらこちらで行われるようだ。そしてこの城南宮は、明治の始まりの舞台ともなっている。明治政府軍と江戸幕府軍が戦った戊辰戦争の始まりが鳥羽・伏見の戦いであるが、その鳥羽というのは正に鳥羽離宮のことである。薩摩軍が城南宮や安楽寿院に陣取り、大坂から攻めてきた幕府軍を撃退した。これで幕府に大きな打撃を与え、その後の江戸開城や上野、長岡、会津、函館五稜郭などの戦いにつながる。
院政の舞台と、そこから700年ほど後の明治の始まりというのが同じところで繰り広げられたというのも、京都という町の歴史の深さである。この700年というのは、日本で武士が政治の中央への足がかりをつかみ、権力を担い、そして無くなっていくだけの時間にも相当する。



さて、城南宮からさらに西に行くと鳥羽離宮公園がある。こちらは鳥羽離宮の南殿の跡地が見つかったところであり、鳥羽・伏見の戦いの激戦地ともなった場所である。まさに700年の歴史が同居しているところだが、明治150年の現在は少年野球やサッカーのグラウンドとして地元の人たちが気軽に利用する公園である。さまざまな時のさまざまな人たちの関わりで現在がある。平和な光景であればあるほど、昔の人たちの努力に思いを馳せたいと思うのである。
さて、ここまで来たところで今回の竹田・鳥羽めぐりは終了して、竹田駅に戻る。この日はちょうどこれから京都市内で都道府県対抗の全国女子駅伝が行われるのだが、ここは洛南である。また、鳥羽・伏見の戦いというなら、鳥羽から伏見に行くのも面白いかと思う。目指すは伏見桃山の商店街ということにして、再び近鉄京都線に乗る・・・。

































さて、ここまで来たところで今回の竹田・鳥羽めぐりは終了して、竹田駅に戻る。この日はちょうどこれから京都市内で都道府県対抗の全国女子駅伝が行われるのだが、ここは洛南である。また、鳥羽・伏見の戦いというなら、鳥羽から伏見に行くのも面白いかと思う。目指すは伏見桃山の商店街ということにして、再び近鉄京都線に乗る・・・。