2018年は西国三十三所の草創1300年のまさにその年に当たる。2016年~2020年の5年間を記念事業に位置付けているが、その真ん中となるとまたさまざまなことが行われることだろう。先達会からも年賀状代わりの案内が送られてきたので、また折を見て紹介したいと思う。
さて、年越しの高岡、白川郷、五箇山めぐりから戻って中1日の1月3日、青春18きっぷを手に出かけることにする。少し間隔が空いた西国三十三所めぐりの2巡目。ここまで18所を回って残り半分を切っているが、青岸渡寺、圓教寺、成相寺、松尾寺、長命寺、観音正寺(華厳寺はやはり最後にするとして)といった遠いところが残っている。その中で、新快速1本で行ける姫路や近江は置いておくとして、青春18きっぷの有効活用として丹後か紀州かということになる。そして丹後は・・・先日雪の中を歩いているし、丹後は雪ではなく雨だろう。ということで、日本海に対する太平洋を見ようということもあり、青岸渡寺を目指すことにする。
西国めぐりとして青岸渡寺に行くのは、2巡目だが3回目となる。1巡目の時には阪急交通社の日帰りバスツアーで、掛け軸の朱印をいただく2回目は前日松阪に泊まり、消えゆく国鉄型気動車に乗るために訪ねた。そして3回目・・・今度は天王寺側から青春18きっぷで行ってみようか。
青春18きっぷ1枚で天王寺から青岸渡寺(紀伊勝浦もしくは那智からバス)まで往復ができる。阪和線で天王寺まで戻るのは23時36分。青春18きっぷの耐久レースみたいなものだが、これをやってみることにしよう。
まず出発するのは天王寺6時50分発の湯浅行き。青春18きっぷの耐久レースとは言いながら出発がゆっくりのような気がするが、この後の列車の便は限られており、あまり早く出かけても途中での待ち時間が増えるだけである。
少しずつ外が明るくなる中、ウトウトしながら走り大阪から和歌山に入る。最初の駅は紀伊。これから延々と紀伊の国を鈍行で走ることになる。
和歌山に到着。この列車は湯浅行きだが、ここで下車する。次に乗る和歌山始発の紀伊田辺行きが15分後の8時05分発のため、最初から座って行こうということである。できれば、海の見える席を確保したい。
その列車は折り返しではなく、大阪側から客を乗せてやって来た。どうやら和歌山線の列車のようだ。来たのはかつて新快速でも使われていた117系で、これでゆったりと行けそうだ。無事に海側の席も確保する。
まずは海南を過ぎると下津の海が見えてくる。天気が晴れていることもあり、穏やかに見える。しかし南下すると雲が広がって来て、一瞬ではあるが雨も降ってくる。どうやら変わりやすい天気になりそうだ。
有田に差し掛かる。こちらは言わずと知れた紀州みかんの産地。私の大学の同級生が脱サラしてこの地でみかんの栽培に従事していて、この冬も美味いみかんを味わうことができた(彼はそれが生業なのできちんと買い求めた)。正月はまだまだ出荷で忙しいそうで、この時間も作業していることだろう。
湯浅では先の列車で終点まで来たらしい客を乗せ、切目、岩代という海岸線のきれいな区間に差し掛かる。前回青岸渡寺を訪ねた時は紀伊半島の東から入った後西海岸に回ったのだが、この区間は夜で何も見えなかった。この先の黒潮の景色も楽しみである。
9時55分、終点の紀伊田辺に到着。次の新宮行きの10時41分まで時間がある。後の鈍行では間に合わないのでどうしてもこの待ち時間は出てしまう。駅にいても仕方ないので外に出る。出迎えるのは弁慶の像である。
紀伊田辺は熊野古道への玄関口で、駅の横にはその観光案内所やバス乗り場もある。その中で、途中下車の合間に向かったのは駅からほど近い闘鶏神社。ちょうど3ヶ日、初詣に訪れる人の姿も結構見かける。
闘鶏神社の由緒は、允恭天皇の頃というから3世紀とされているが、熊野権現を勧請したのが始まりだという。さらに平安時代に熊野三所権現や天照大神などを勧請した。当初は田辺宮と呼び、ここを守るのは田辺別当であった。ここは熊野街道の中辺路の玄関口ということで、当時はやった熊野参詣の時にはここに立ち寄って参籠することが多かったそうだ。そう言われれば、拝殿の後にいくつかの祠があるが、熊野本宮大社のそれと同じようなものに見える。
田辺別当に湛増という人物がいて、その子が弁慶であると伝えられている。それで駅前に弁慶の像があるというわけだ。また境内には湛増と弁慶の像があり、その前には鶏も一緒にいる。田辺別当は田辺宮を守るだけでなく、当時この地に発達していた海賊たちを統括していた。実質、熊野の主と言ってもいい形で、当初は平氏とつながりを持っていた。しかし、源平の戦いの時にどちらにつくかということになり、鶏を紅白に分けて闘わせた。その結果、白の鶏が勝ったことから、白旗の源氏方につくことを決め、熊野の海賊たちを率いて瀬戸内海に向かったという。そのことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離で現在の闘鶏神社という名前になった。
こうした由来があるためか、闘鶏神社は勝負事のご利益があるとされている。境内に神馬の像のほかに「競馬記念碑」というのがあったが、ギャンブルの方面にもご利益があるのかな。(後でわかったことは、かつては境内に馬場があり、流鏑馬や神事としての競馬が行われていたことを示すものだという)
他には藤厳(とうがん)神社というのがある。江戸時代、紀州藩の出先として紀伊田辺藩というのがあり、紀州藩の家老であった安藤直次が初代の藩主となった。現在の田辺の原形を作ったり、今では紀州名物の一つである梅の栽培を奨励した。その法名から「藤厳公」と呼ばれ、明治時代にその功績に感謝するために神社が建立された。
さてこれから目指す青岸渡寺は、言うなれば那智山である。熊野三社の一つに向かう前に、その別当宮であった闘鶏神社というのもいいだろう。そろそろ列車の時間が近くなり、駅に戻る。ここからがまた長い道のりである・・・・。
さて、年越しの高岡、白川郷、五箇山めぐりから戻って中1日の1月3日、青春18きっぷを手に出かけることにする。少し間隔が空いた西国三十三所めぐりの2巡目。ここまで18所を回って残り半分を切っているが、青岸渡寺、圓教寺、成相寺、松尾寺、長命寺、観音正寺(華厳寺はやはり最後にするとして)といった遠いところが残っている。その中で、新快速1本で行ける姫路や近江は置いておくとして、青春18きっぷの有効活用として丹後か紀州かということになる。そして丹後は・・・先日雪の中を歩いているし、丹後は雪ではなく雨だろう。ということで、日本海に対する太平洋を見ようということもあり、青岸渡寺を目指すことにする。
西国めぐりとして青岸渡寺に行くのは、2巡目だが3回目となる。1巡目の時には阪急交通社の日帰りバスツアーで、掛け軸の朱印をいただく2回目は前日松阪に泊まり、消えゆく国鉄型気動車に乗るために訪ねた。そして3回目・・・今度は天王寺側から青春18きっぷで行ってみようか。
青春18きっぷ1枚で天王寺から青岸渡寺(紀伊勝浦もしくは那智からバス)まで往復ができる。阪和線で天王寺まで戻るのは23時36分。青春18きっぷの耐久レースみたいなものだが、これをやってみることにしよう。
まず出発するのは天王寺6時50分発の湯浅行き。青春18きっぷの耐久レースとは言いながら出発がゆっくりのような気がするが、この後の列車の便は限られており、あまり早く出かけても途中での待ち時間が増えるだけである。
少しずつ外が明るくなる中、ウトウトしながら走り大阪から和歌山に入る。最初の駅は紀伊。これから延々と紀伊の国を鈍行で走ることになる。
和歌山に到着。この列車は湯浅行きだが、ここで下車する。次に乗る和歌山始発の紀伊田辺行きが15分後の8時05分発のため、最初から座って行こうということである。できれば、海の見える席を確保したい。
その列車は折り返しではなく、大阪側から客を乗せてやって来た。どうやら和歌山線の列車のようだ。来たのはかつて新快速でも使われていた117系で、これでゆったりと行けそうだ。無事に海側の席も確保する。
まずは海南を過ぎると下津の海が見えてくる。天気が晴れていることもあり、穏やかに見える。しかし南下すると雲が広がって来て、一瞬ではあるが雨も降ってくる。どうやら変わりやすい天気になりそうだ。
有田に差し掛かる。こちらは言わずと知れた紀州みかんの産地。私の大学の同級生が脱サラしてこの地でみかんの栽培に従事していて、この冬も美味いみかんを味わうことができた(彼はそれが生業なのできちんと買い求めた)。正月はまだまだ出荷で忙しいそうで、この時間も作業していることだろう。
湯浅では先の列車で終点まで来たらしい客を乗せ、切目、岩代という海岸線のきれいな区間に差し掛かる。前回青岸渡寺を訪ねた時は紀伊半島の東から入った後西海岸に回ったのだが、この区間は夜で何も見えなかった。この先の黒潮の景色も楽しみである。
9時55分、終点の紀伊田辺に到着。次の新宮行きの10時41分まで時間がある。後の鈍行では間に合わないのでどうしてもこの待ち時間は出てしまう。駅にいても仕方ないので外に出る。出迎えるのは弁慶の像である。
紀伊田辺は熊野古道への玄関口で、駅の横にはその観光案内所やバス乗り場もある。その中で、途中下車の合間に向かったのは駅からほど近い闘鶏神社。ちょうど3ヶ日、初詣に訪れる人の姿も結構見かける。
闘鶏神社の由緒は、允恭天皇の頃というから3世紀とされているが、熊野権現を勧請したのが始まりだという。さらに平安時代に熊野三所権現や天照大神などを勧請した。当初は田辺宮と呼び、ここを守るのは田辺別当であった。ここは熊野街道の中辺路の玄関口ということで、当時はやった熊野参詣の時にはここに立ち寄って参籠することが多かったそうだ。そう言われれば、拝殿の後にいくつかの祠があるが、熊野本宮大社のそれと同じようなものに見える。
田辺別当に湛増という人物がいて、その子が弁慶であると伝えられている。それで駅前に弁慶の像があるというわけだ。また境内には湛増と弁慶の像があり、その前には鶏も一緒にいる。田辺別当は田辺宮を守るだけでなく、当時この地に発達していた海賊たちを統括していた。実質、熊野の主と言ってもいい形で、当初は平氏とつながりを持っていた。しかし、源平の戦いの時にどちらにつくかということになり、鶏を紅白に分けて闘わせた。その結果、白の鶏が勝ったことから、白旗の源氏方につくことを決め、熊野の海賊たちを率いて瀬戸内海に向かったという。そのことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離で現在の闘鶏神社という名前になった。
こうした由来があるためか、闘鶏神社は勝負事のご利益があるとされている。境内に神馬の像のほかに「競馬記念碑」というのがあったが、ギャンブルの方面にもご利益があるのかな。(後でわかったことは、かつては境内に馬場があり、流鏑馬や神事としての競馬が行われていたことを示すものだという)
他には藤厳(とうがん)神社というのがある。江戸時代、紀州藩の出先として紀伊田辺藩というのがあり、紀州藩の家老であった安藤直次が初代の藩主となった。現在の田辺の原形を作ったり、今では紀州名物の一つである梅の栽培を奨励した。その法名から「藤厳公」と呼ばれ、明治時代にその功績に感謝するために神社が建立された。
さてこれから目指す青岸渡寺は、言うなれば那智山である。熊野三社の一つに向かう前に、その別当宮であった闘鶏神社というのもいいだろう。そろそろ列車の時間が近くなり、駅に戻る。ここからがまた長い道のりである・・・・。