紀伊勝浦駅から那智山に向かうバスに乗る。路線バスのように後乗り前降りだが、車内はゆったりした二人掛けシートが並ぶ。途中那智駅に立ち寄り乗客があるが、先ほどの鈍行列車に乗っていた人の姿も見える。那智駅はホームの裏が砂浜になっているし、道の駅があって温泉施設も備えている。またバス代も安くなるので、こちらでバスを待つのもありである(特急が停まらないのだけは仕方ないが)。
ここから先は、2011年9月の紀伊半島豪雨の被害が大きかったところ。奈良、和歌山、三重の3県で88人が犠牲になり、3月に発生した東日本大震災ともども、災害の多い年を現す出来事だった。その後に建て直した家が目立つので集落としては一見新しいように見えるが、慰霊碑がちらりと見えたり、ところどころ更地のままの土地が見えると、爪痕はまだまだ消えないものだと感じる。今も川の護岸工事の最中である。
前回は雨の中を途中で降りて大門坂を歩いたが、今回はそのまま那智山に向かう。何せ、大阪から青春18きっぷ1回分で日帰り往復するのである。那智山での折り返しのバスまでの時間は1時間15分ほど。西国巡拝のバスツアーでももう少し滞在時間があったように思う。ただこの日は正月3日。山上は結構クルマで渋滞している。時間が少なくなりはしないかと余計に焦る。14時35分着のところ、結局10分近く遅れて到着した。参道には、青岸渡寺1300年と合わせて、那智大社1700年を祝う看板が出ている。この1700年前というのは仁徳天皇の年代とされているが、そこまで正確に遡れるとは知らなかった。
これから参道の400段ほどの石段を上がるのだが、ここで今後の行程を見直してみる。予定では帰りのバスは15時50分発だが、実はもう1本後の16時25分発でも、紀伊勝浦からの乗り継ぎには間に合う。これで那智山の滞在が少し延びる。また、ふとここで「行きと帰りで同じ線を通るのは・・・」という、乗り鉄の悪魔のささやきのようなものが出てくる。それについてどうするかは、また後で書くことにする。
石段を上り、青岸渡寺と那智大社との分岐に出る。ここで選んだのは那智大社。まずは鳥居をくぐり、境内に向かう。
すると、見覚えのある拝殿は高いフェンスに覆われていた。創建1700年の事業として、拝殿の改修と銅板屋根の葺き替えを行っている。この前に訪ねた富山高岡の瑞龍寺でも山門の改修工事中で、数日の間に偶然にもそんな場面に当たるかと苦笑する。いずれも文化財の維持と、後の世代に伝えるのに必要なことで、また新たな姿を見せていただけるのを楽しみにする。
拝殿で手を合わせることはできるので、列に並んで護摩木をお供えして、お参りをする。また、那智大社名物?の巨大おみくじにも挑戦。なかなか、示唆に富むお告げの言葉が書かれていた。
さて、この後でようやく西国めぐりとしての青岸渡寺である。連絡口?を抜けて今度は寺の領域である。こちらは那智大社ほどの混雑はないが、手水で清めて線香を供えようとすると、数が多いので炉に立てずに投げ入れるよう案内される。
こちらも正面では行列ができていて、まず並んで手を合わせた後で、横にそれて西国めぐりのお勤めとする。正月だから、そして西国の1番札所だからというわけではないが、観音経の偈文も唱える。その後で先達用の巻物型納経帳にご朱印をいただき、ようやくこいつの1番が埋まったかと、新たな年の気持ちのリセットとする。
ここまで来てバスの時間まで少し余裕ができたので、那智の滝まで歩く。まず、青岸渡寺の横のスペースで三重塔と滝との組み合わせの景色を見る(ここには、一番良さそうな位置に写真屋が陣取っている。客に記念撮影のシャッターを押しましょうと近づいて、「はい、な~ち!」と言ってシャッターを押す。その掛け声が気色悪いし、その後で自分たちが改めて撮る写真を売りつけようとするので、私は鬱陶しい連中としか見ない。だから近づけない)。ここから滝まで歩いて移動する。
那智の滝はやはり何度来ても雄大な景色である。この日は上から下まで流れていたが、1週間後のニュースでは滝の凍結も見られたそうである。
ここまで来て時間が出てきたので、滝の近くに行くことにする。延命の水をいただき、御滝拝所から滝を仰ぎ見る。この滝はいつからあったのだろうかと、思いを馳せる。先ほど、青岸渡寺1300年、那智大社1700年というのに触れたが、那智の滝はもっと古くからあるだろう。後ろに0が一つつくのかどうかは議論があるのだろうが・・・。
御滝拝所からの帰り道に拝殿があり、ここから改めて手を合わせる。昨年の末に職場でもいろいろあったので、ここは一個人としてだが、新たな年の仕事・職場が無事に運ぶようにと願う。
青岸渡寺、那智大社、那智の滝の三点セットを回り、時間が残ったので滝から那智山のバス停まで歩いて戻る。ここまで来てようやく折り返しである・・・。
ここから先は、2011年9月の紀伊半島豪雨の被害が大きかったところ。奈良、和歌山、三重の3県で88人が犠牲になり、3月に発生した東日本大震災ともども、災害の多い年を現す出来事だった。その後に建て直した家が目立つので集落としては一見新しいように見えるが、慰霊碑がちらりと見えたり、ところどころ更地のままの土地が見えると、爪痕はまだまだ消えないものだと感じる。今も川の護岸工事の最中である。
前回は雨の中を途中で降りて大門坂を歩いたが、今回はそのまま那智山に向かう。何せ、大阪から青春18きっぷ1回分で日帰り往復するのである。那智山での折り返しのバスまでの時間は1時間15分ほど。西国巡拝のバスツアーでももう少し滞在時間があったように思う。ただこの日は正月3日。山上は結構クルマで渋滞している。時間が少なくなりはしないかと余計に焦る。14時35分着のところ、結局10分近く遅れて到着した。参道には、青岸渡寺1300年と合わせて、那智大社1700年を祝う看板が出ている。この1700年前というのは仁徳天皇の年代とされているが、そこまで正確に遡れるとは知らなかった。
これから参道の400段ほどの石段を上がるのだが、ここで今後の行程を見直してみる。予定では帰りのバスは15時50分発だが、実はもう1本後の16時25分発でも、紀伊勝浦からの乗り継ぎには間に合う。これで那智山の滞在が少し延びる。また、ふとここで「行きと帰りで同じ線を通るのは・・・」という、乗り鉄の悪魔のささやきのようなものが出てくる。それについてどうするかは、また後で書くことにする。
石段を上り、青岸渡寺と那智大社との分岐に出る。ここで選んだのは那智大社。まずは鳥居をくぐり、境内に向かう。
すると、見覚えのある拝殿は高いフェンスに覆われていた。創建1700年の事業として、拝殿の改修と銅板屋根の葺き替えを行っている。この前に訪ねた富山高岡の瑞龍寺でも山門の改修工事中で、数日の間に偶然にもそんな場面に当たるかと苦笑する。いずれも文化財の維持と、後の世代に伝えるのに必要なことで、また新たな姿を見せていただけるのを楽しみにする。
拝殿で手を合わせることはできるので、列に並んで護摩木をお供えして、お参りをする。また、那智大社名物?の巨大おみくじにも挑戦。なかなか、示唆に富むお告げの言葉が書かれていた。
さて、この後でようやく西国めぐりとしての青岸渡寺である。連絡口?を抜けて今度は寺の領域である。こちらは那智大社ほどの混雑はないが、手水で清めて線香を供えようとすると、数が多いので炉に立てずに投げ入れるよう案内される。
こちらも正面では行列ができていて、まず並んで手を合わせた後で、横にそれて西国めぐりのお勤めとする。正月だから、そして西国の1番札所だからというわけではないが、観音経の偈文も唱える。その後で先達用の巻物型納経帳にご朱印をいただき、ようやくこいつの1番が埋まったかと、新たな年の気持ちのリセットとする。
ここまで来てバスの時間まで少し余裕ができたので、那智の滝まで歩く。まず、青岸渡寺の横のスペースで三重塔と滝との組み合わせの景色を見る(ここには、一番良さそうな位置に写真屋が陣取っている。客に記念撮影のシャッターを押しましょうと近づいて、「はい、な~ち!」と言ってシャッターを押す。その掛け声が気色悪いし、その後で自分たちが改めて撮る写真を売りつけようとするので、私は鬱陶しい連中としか見ない。だから近づけない)。ここから滝まで歩いて移動する。
那智の滝はやはり何度来ても雄大な景色である。この日は上から下まで流れていたが、1週間後のニュースでは滝の凍結も見られたそうである。
ここまで来て時間が出てきたので、滝の近くに行くことにする。延命の水をいただき、御滝拝所から滝を仰ぎ見る。この滝はいつからあったのだろうかと、思いを馳せる。先ほど、青岸渡寺1300年、那智大社1700年というのに触れたが、那智の滝はもっと古くからあるだろう。後ろに0が一つつくのかどうかは議論があるのだろうが・・・。
御滝拝所からの帰り道に拝殿があり、ここから改めて手を合わせる。昨年の末に職場でもいろいろあったので、ここは一個人としてだが、新たな年の仕事・職場が無事に運ぶようにと願う。
青岸渡寺、那智大社、那智の滝の三点セットを回り、時間が残ったので滝から那智山のバス停まで歩いて戻る。ここまで来てようやく折り返しである・・・。