豊後高田の中心部を通り、これから国東半島の中央部に向かう。この辺りは今年1月にもレンタカーで訪ねていて、どこか見覚えのある道が続く。
その時は宇佐神宮から熊野磨崖仏、富貴寺と回ったところで時間切れとなり、国東市から杵築市へと回った。この時、時間的に熊野磨崖仏との選択になった結果素通りしたのが真木大堂である。もっとも、今思えば回るだけの時間はあったのかな。今回は熊野磨崖仏はパスして、真木大堂に向かう。まあ、熊野磨崖仏の実物大レプリカは、前回の九州西国めぐりで大分県立歴史博物館で見たことだし・・。
国東半島に広がる「六郷満山」は、今から1300年あまり前の奈良時代に仁聞菩薩によって開かれ、昔からの山岳信仰と神仏習合が交じりあった修行の場の総称である。今では宇佐神宮や、この後訪ねる両子寺など、31の寺社をめぐる「六郷満山霊場」というのもあるし、天台宗の僧侶たちが修行として歩く「峯入り」の行も受け継がれている。
国東半島でどこに行くか迷ったのはこの六郷満山の札所の存在があり、どれを抽出しようかということである。まあ、それほど気になるならまたいずれ私の新たな札所めぐりとして1番から順番に回ればいいのだが・・。
真木大堂の駐車場に着く。駐車場の奥の田んぼで暑い中作業をしている人がいるな・・と見えたが、近づくと立っていたのはかかし。この辺り、里山の中でかかしが立っている光景を目にすることが増えるが、町おこしの一つとしてかかしをPRしており、豊後高田市では毎年秋にコンクールも行っているそうだ。
今は真木大堂として観光スポットにもなっているが、元々は馬城山伝乗寺(まきさんでんじょうじ)という、六郷満山の中でも最大規模の寺院だったという。後に火災で焼失したために縮小されたが、平安時代後期からの貴重な仏像が残されている。それが安置される収蔵庫が正面にあり、真木大堂の本堂といっていい。
収蔵庫の横から入り、正面は二重のカーテン扉になっている。そして照明を落とされたガラス張りの収蔵スペースに出る。それだけ厳重に管理されている。
ガラス張りの向こう側には、いずれも国の重要文化財に指定される9体の仏像が祀られている。中心にいるのが本尊の阿弥陀如来。丈六の坐像で立派な体格をしているように見える。その阿弥陀如来が祀られている四方を護るように立っているのが四天王像である。
こちらから見て阿弥陀如来の左側には大威徳明王が祀られる。大威徳明王は本地は阿弥陀如来とされ、忿怒の相をしている。神の使いとされる水牛にまたがっているが、水牛の造りがやたらリアルに見えるし、そのためか大威徳明王像も躍動感があるようだ。一方右側には不動明王と二童子が祀られるが、不動明王も2メートルを超す大きなものである。その当時から高い彫像の技術がこの地にあったことがうかがえる。
平安時代の六郷満山が栄えていた様子を今に伝える貴重な文化財で、これだけよい状態で残されてきたのも地元の人たちの支えによるものだろう。最近、神仏習合の裏返しで明治の神仏分離、廃仏毀釈に関する新書も読んだのだが、国東ではそこまでの過激な行いというのはなかったのだろうか。
収蔵庫の横にお堂がある。こちらが旧本堂で、江戸時代のものとされる。当時は先ほどの阿弥陀如来などの仏像もこちらに祀られていたという。堂内に入ることができるのでおじゃまする。
正面には一対の仁王像が立つ。屋内で仁王像に出会うのもなかなかない。往時は先ほどの阿弥陀如来や大威徳明王などとともに一切合財このお堂に詰め込まれたのかなと思う。この仁王像も収蔵庫に行きたかったのかもしれないが、いやいや、意地でもこのお堂を護るということで居残ったのか。そこのところの本音を訊いてみたい。
その仁王像の後ろには菊の御紋が見える。鎌倉時代の元寇の折、各地の寺社で異国降伏の祈祷が行われたが、幕府から六郷満山にも命令が下り、伝乗寺も大規模な祈祷を行ったという。そのおかげ?で元を退けた恩賞として、朝廷から幕府を通して菊の御紋を授けられたと伝えられる。そういう歴史もあるのか。
また堂内の壁や柱には、六郷満山の峯入りを終えたことを示すお札が掲げられる。
境内の奥はミニ公園として整備されていて、これも石の国大分というべきか、さまざまな石塔、石仏が並べられている。この地独特の国東塔や、諸国を回った六十六部の供養塔などもある。元々近隣の寺院や道端にあったものだが、なかなか維持も難しいということで地元の人たちの協力もあってここに集められたという。仏像の収蔵庫といい、国東の歴史を後に伝えていこうという取り組みである。
これで真木大堂を後にして、しばらくクルマを山中に進める。この一帯の田染荘(たしぶのしょう)を見ることにする。
田染荘は古代、墾田永年私財法の頃から開かれた水田地帯で、平安時代に宇佐神宮の荘園となった。その後いろいろ変遷はあるものの、ベースとなる田んぼや集落の位置は当時からのものがそのまま受け継がれている。大規模な圃場整備やコンクリートの用水路を設けることもなかった。その結果、今ではユネスコの「世界農業遺産」にも認定されている。
1200年もの間、形をほぼ変えずに残る水田というのも珍しいものだ。真木大堂からクルマを走らせるとさりげなく案内が掲げられる。展望スペースもあるので上がってみる。パッと見たところでは昔からの里山風景にしか思えないのだが、わかる人にはわかるのだろう。現在、各地にはまだまだ大規模な水田が残るが、これらのほとんどはさまざまな整備や設備改良が施されているということか。
平安時代からの寺社が残る国東らしい景色というのは単純な感想だが、そうした歴史あるところなら、ここでできた米も特別な味がしそうだ。どこかで売ってやしないかな。
さてここから半島の中央部に向かう。到着したのは富貴寺。ここは1月に続けての参詣である。こちらも仁聞菩薩が開いた六郷満山の寺社の一つで、霊場の札所にもなっている。
こちらのシンボルは国宝の大堂。平安時代の建立とされ、天台宗の寺院にあって浄土教の色彩が強い建物である。こちらは特別に開扉されていて、大堂に祀られている阿弥陀如来を拝むことができる。当時から数百年もの年月を経ているが、当時の壁画もかすかに残っており、参詣者は堂内にあるペンライトでその跡をたどることができる。いったん大堂の裏側に回り、扉をくぐってさらに中を回り込む。今も変わらぬ姿で仏像、そして壁画が出迎える。
もっとも、富貴寺大堂も大分県立歴史博物館でレプリカ復元されている。こちらでは中の壁画も再現されており、当時の人がまぶしく、ありがたがって手を合わせた様子がうかがえる。
現物と復元のどちらを先に見るべきかは意見が分かれるだろうが、現物~復元~現物と時間を置いて見ると、理解がより一層深まるように思う。この富貴寺もそれだけ長い年月に耐えてきたということにも改めてうなるところだ。
以前来た時には気づかなかったのだが、大堂の奥に石段があり、奥の院の薬師岩屋に続くとある。石段を見上げると終点がすぐそこのように見えたのでそのまま上がってみる。確かに岩をくり抜いた祠に薬師如来が祀られている。寺の由来にどのくらい関連するのかはわからないが、元々は山岳信仰の一つでこうした岩屋を拝んでいて、後に浄土信仰が広まって大堂(阿弥陀堂)ができたのかなと思わせる。
また、富貴寺にも神仏習合の名残がある。大堂の横に鳥居があり、大権現の額がかかっている。かつての六所権現で、神仏分離以降は白山神社となっている。この白山神社は富貴寺の住職が代々一緒に世話しているそうで、神社の祭礼でも僧侶の袈裟を着けて、般若心経などをあげるという。これも前回気づかなかった。
やはり一度訪ねただけでは気づかないところもあり(まあ、そんなにガチガチにそのスポットについて事前に調べつくすわけでもなく)、新たな視点を得たうえで再訪すると見えるものもあるということか。
山門から後にすると、いつの間にか猫が2匹寝転がっていた。暑さを避けて日陰にやってきたのかな。
まずは六郷満山の中でもよく知られるスポットを訪ね、ここから九州西国霊場めぐりとする。まず向かうのは第5番の天念寺である・・・。