まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国三十三所めぐり~熊野の奇勝と新宮速玉大社

2021年08月19日 | 西国三十三所

8月1日、前日に引き続きレンタカーを使用して、熊野市から熊野三山を回って大阪に戻り、新幹線で広島に戻る1日である。ここからは旅のカテゴリを西国三十三所とする。

朝食を終え、7時半前に「ホテルなみ」をチェックアウト。ホテルの前が鬼ヶ城へ続く道となっていて、そのまま鬼ヶ城センター前に駐車する。こちらが鬼ヶ城の東口で、反対側の西口まで約1キロの遊歩道が続いている。太陽も空高く、また海や岩場に照り返すので歩く前から暑いのだが、ともかく西口まで向かうことにする。

鬼ヶ城はかなり以前に一度訪ねたことがあるが、その時はおそらく熊野市駅に近い西口から回ったのではないかと思う。ならば今回は逆方向からとなる。

その昔、熊野の海を荒らし回り、鬼と恐れられた海賊の多娥丸(たがまる)という人物が根拠にしていて、それを坂上田村麻呂が征伐したという伝説がある。そのことから鬼の岩屋、鬼ヶ城という名前になったが、いかにもそうしたならず者が根城にしていてもおかしくない造りである。

鬼ヶ城は志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、熊野灘の波に削られた無数の海食洞が、地震によって隆起したものという。さすがに風だけではこれだけの「自然の造形物」はできないだろう。

まず目を見張るのが千畳敷。高さ15メートル、広さ1500平方メートルある。1500平方メートルは畳に換算すると900畳ほどというから、千畳敷という表現も言い得ている。ここが多娥丸の根城だったと言われると素直に納得する。

千畳敷から西は厳しい地形が続く。岩を加工して階段にしたり、手すりも設けられているが、結構スリルがある。また岩と岩の隙間も多く、鉄橋も架けられているが、一つ間違えば落ちそうだ。これまでにも、台風などの被害で通行止めとなることもしばしばあったそうだ。

サルでもここから引き返す猿戻り、犬もここから引き返す犬戻りという断崖もある。緊張と暑いのとが合わさって結構汗だくになる。そんな中、多少足元に余裕がある岩場では釣り糸を垂らす人もちらほら見かける。これぞ磯釣りという光景だ。実際、鬼ヶ城は釣りのスポットとしても知られており、結構大物も揚がるそうだ。

その後、鬼の見張り場、水谷、鬼の洗濯場などの場所を過ぎる。それぞれ鬼の生活の場としての名前だが、海賊たちもこうしたところを使っていたのだろうか。

30分ほどで西口に近づき、遠くに七里御浜を見る。リアス式海岸は一転してまっすぐ伸びる砂浜の海岸線となる。この組み合わせも不思議といえば不思議である。

さて、体は西口に来たがクルマは東口に停めている。鬼ヶ城をもう一度眺めながら東口に戻るところだろうが、先ほどの断崖で結構ヒヤッとしたものだから1回で十分である。松本峠をくぐる歩行者用のトンネルがあるので、そちらをくぐることにする。

集落の先にトンネルの入口がある。木本隧道と呼ばれているが、現在の国道42号線や紀勢線のトンネルよりも古く大正時代の開通である。509メートルは当時の車道トンネルとしては長いもので、かつては国道42号線の一部としても使われた。新たに国道42号線の整備で鬼ヶ城トンネルができたので、そちらを自動車専用にして木本隧道は歩行者・自転車用となった。熊野古道ならばこの上の道を行くところだが、ここはショートカットする。トンネルの中なので多少は涼しい。

東口に戻ってレンタカーで出発する(これなら、ホテルの駐車場に停めておいてもよかったかなと思う)。今度は国道トンネルを通り、熊野市の市街地に入る。国道沿いの堤防の向こうが七里御浜で、先ほどとは対照的な穏やかな景色が広がる。その昔、伊勢方面から熊野詣に来た人たちもホッとしたことだろう。

そんな中でアクセントなのが獅子岩。

その南にあるのが花の窟神社である。ここも熊野古道の世界遺産の一つである。以前に三重県内をサイコロの出目に従ってめぐる旅をしたことがあるが、その時に熊野市まで南下して(北は桑名から南は熊野市まで、三重県は「長い」と感じた次第)花の窟神社にも参詣した。

花の窟神社はイザナミノミコトを祭神として、日本最古の神社と言われている。国産み伝説の中で、イザナミノミコトは火の神であるカグツチノミコトを産んだ後に陰部に火傷を負って亡くなるのだが、その亡骸がここ熊野に葬られたという。同じようにイザナミノミコトが葬られた場所として、中国地方では比婆山が該当するというが、まあ、その辺りは諸説いろいろということで。

神社といっても立派な社殿があるわけではなく、目の前にそびえる巨大な岩がご神体である。この麓の岩陰にイザナミノミコトが葬られたとして、玉垣で囲んだ拝所がある。

またその対面には、火の神のカグツチノミコトの墓所とされる岩もある。一応、母と子が向き合ってという形である。

花の窟神社で知られるのは年に2回の大祭。高さ45メートルのご神体の岩の上から巨大な綱を境内のご神木に渡す「御綱掛け神事」が行われる。しかしこの1300年以上続くというこの神事も、昨年の10月、そして今年の2月と、コロナの影響で中止されたという。とすると、今垂れ下がっている綱は昨年の2月の神事のものかな。コロナが騒ぎになり始めたのは確かその頃だから、コロナの災厄がこの綱にも集まっているようにも感じられる。

国道42号線を走る。左手には七里御浜が広がるが、道路との間には防風林があって見通すことはできない。そんな中、熊野市から御浜町に入り、七里御浜ふれあいビーチに差し掛かる。ちょっと面白そうなのでこちらに立ち寄ってみる。

ヤシの木など植えて南国ムードを出している。三重県とは思えない景色だが、この向こうはどこまでも続く太平洋。ここまで来た甲斐があったと思う。

熊野川の橋梁を渡り、これで長かった三重県とはお別れ、ここから和歌山県に入る。熊野川を渡ってすぐのところに、熊野三山の一つである熊野速玉大社がある。駅から中途半端に離れていることもあり、鉄道の旅で新宮は何度か通っているがかなり前に一度参詣したくらいだが、今回は絶好の機会ということで、まずはこちらのお参りとする。

熊野速玉大社・・・かつては紀勢線の夜行列車に「はやたま」というのがあったがここから来ている。その昔、熊野速玉大神と熊野夫須美大神が神倉山のゴトビキ岩に降り立ち、景行天皇の時代に現在の地に遷座したという。新しく宮が設けられたから、この地を「新宮」と呼ぶようになったと伝えられる。

「新宮」という名前は「熊野本宮」に対する「新宮」だと思っていたのだが、そうではないようだ。当の速玉大社がそう言うのだから、そういうことなのだろう。

現在改装のため休館中の神宝館の前に、武蔵坊弁慶の木像がある。ここ新宮は弁慶の出身地という・・・。あれ、弁慶は同じ紀州でも田辺の生まれではなかったか。いや、以前に島根県に行った時には松江の出身という案内もあった。父親が熊野大社の別当とされることからこの新宮出生説もあるそうだが、物心ついた時から一族で住んでいたわけでなく、各地で修行生活を送っていたら、弁慶本人ですら自分がどこの生まれかわからなくなった・・ということもあるのではないかと思う。

朱塗りの拝殿にて手を合わせる。速玉宮、結宮、上三殿、八社殿などを順にお参り。今は神社として神を祀るが、かつては神仏習合の歴史があった。境内にそうした案内はないが、記録によると速玉宮に祀られる熊野速玉大神の本地仏は薬師如来、結宮に祀られる熊野夫須美大神の本地仏は千手観音という。

その脇に新宮神社というのがある。新宮市内のさまざまな神々を一緒に祀ったそうで、ここにお参りすればあらゆるご利益が一気に受けられそうな気がする。ここにも手を合わせた後、ちょうど神官の方たちもお参りをしていた。

拝殿の前に「熊野御幸」と書かれた石碑がある。平安時代後期から盛んに行われた皇族方の熊野参詣の履歴がずらりと並ぶ。合計23名、141回(度)とあるが、最も多いのが後白河上皇(法皇)の33回、次いで後鳥羽上皇の29回、鳥羽上皇(法皇)の23回、白河上皇(法皇)の12回などとなっている。その中に交じって、花山法皇の1回というのがある。西国三十三所の中興の祖である花山法皇だが、この1回の時に那智山にて修行し、青岸渡寺を含む三十三所のベースを作ったと伝えられる。

それにしても、一度や二度ならまだしも、33回も行くとはかなりのものである。当然現代のような交通手段があるわけでなく、1回の御幸で往復1ヶ月ほどかかるといわれており、上皇(法皇)となると当然多くのお供がつくわけで、費用も多くかかったはずだ。まあ、それだけ力を持っていたとも言えるが・・。

これで熊野三山のうち熊野速玉大社を終え、いよいよ西国三十三所の那智山、青岸渡寺に向かう・・・。

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