九州西国霊場めぐりも、これから大分市に入る。この先大分県内は大分市、臼杵市、豊後大野市に札所が点在しており、その次は熊本県阿蘇に入る。九州めぐりでも残念ながら宮崎、鹿児島両県には行くことがない。
九州西国霊場は今からおよそ1300年前に仁聞菩薩、法蓮法師によって開かれたとされるが、その起こりは英彦山や国東半島を中心とした古くからの山岳信仰と仏教が融合したものという。また、当時はまだ南九州には仏教文化が行き渡っていなかったという。記録に残る最古の寺院は日向、大隅、薩摩の国分寺というが、それが開かれたのも他の国と比べて遅かったそうだ。
ただ、それ以降の歴史もあり、この両県は仏教不毛の地といってもいい。特に鹿児島は島津藩による仏教弾圧、そして明治の廃仏毀釈を徹底するなど、ひどいものだ。まあ、薩摩の芋侍が大きな顔をするかわいそうな土地だから仕方なかったのだろう。
そんな仏教不毛の宮崎・鹿児島にもさすがに現在は八十八ヶ所めぐり、四十九薬師めぐり、三十六不動めぐりと札所が開かれているが、どうなのかね。
・・・それはさておき、これから目指す第8番の霊山寺(りょうぜんじ)は大分市といっても市街地からは南に離れた山中にある。地図を見ると豊肥線、久大線いずれの最寄り駅からも離れており、公共交通機関で行くならば、大分駅から大分バスで30分あまり走った住宅団地のグリーンハイツ入口まで行き、、そこから山道を歩くのが最も近いようだ。バスも1時間に1本ほど出ており、まあ、行けないことはないかなというところ。ただ、九州西国を回るにあたり、そこまで公共交通機関利用にこだわりは持たないことにしたので(現実的ではない)、参考程度ということで(実際にバス+徒歩となると、それだけで半日仕事になる)。
クルマは大分駅の手前で国道10号線から国道210号線に入る。久大線に沿って日田方面に向かう道で、大分のメインストリートの一つということで交通量もそれなりにあり、沿道には商店なども目立つ。東九州自動車道を過ぎ、田尻地区で国道から住宅街に入る。
田尻小学校の横から山中に入る道が延びている。「霊山セラピーロード」という看板もある。霊山寺まで車道は通っているが、標高およそ600メートルの霊山は手軽に森林セラピーが楽しめるスポットとして地元の人たちに親しまれているそうだ。この後の上り下りでもそうした出で立ちの人をポツポツと見かけた。
坂を上る集落の中で丁石を見かける。九丁、そしてその後は十丁から十二丁とある。霊山寺への道しるべだが、ここの丁石は数が増える方式のようだ。九州西国霊場を歩いた種田山頭火が知人に宛てた便りには「二十丁の山路」とあったそうで、とすると参道の起点は田尻の住宅地あたりかなと思う。
もっとも山頭火が歩いたであろう山道とはこの後別れ、クルマはカーブの続く車道へと向かう。
その途中、道幅が少し広がり、ベンチが置かれたところがある。前の木々が切り開かれて、ちょうど大分の市街地、沿岸の工場群などを遠くに見ることができる。結構高いところまで来たものだ。
駐車場が広がり、霊山寺の山門前に到着。他の参詣者の姿は見えないがクルマが何台か並んでいるのは、ここに駐車して霊山の頂上に向かう人なのだろう。
「霊山寺」と書く寺はこれまでにも出会ったことがある。ここ大分は「りょうぜんじ」だが、四国八十八ヶ所めぐりの第1番、鳴門にあるのは「りょうぜんじ」。また、西国四十九薬師めぐりの第2番、奈良にあるのは「りょうせんじ」。
ここ大分の霊山寺は標高約360メートルにあるそうで、霊山のちょうど中腹にあたる。開かれたのは和銅元年、山麓の豪族が山中で十一面観音像を発見し、祀ったのが最初とされる。その後、中国の僧である那伽法師が来た際、この山の地勢が、釈迦が説法したインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていたことに感動し、伽藍を建てて霊山寺と名付けた。
この霊山寺という名前だが、奈良の霊山寺の場合も別の僧だったが、同じく霊鷲山から取ったという話を聞いた。四国の霊山寺については、山の地勢からではないが、弘法大師がその地で修行している際、霊鷲山で釈迦が説法した情景を感得し、インドの霊山を日本に移すという意味で名前がついたという。いずれにしても釈迦に由来したありがたみを感じる名前といっていいだろう。
ここには伝教大師最澄、弘法大師空海、慈覚大師円仁なども訪れたとされる。大友氏の庇護を受けていたが、島津氏との戦いの中で多くの建物が焼失した。江戸時代になり、松平忠直によって本堂や山門などが再建され現在に至る。
仁王門をくぐり、山門に出る。その壁にはさまざまな異なる彫刻絵が描かれている。うっすらと色が残っていて、何やら昔話のように見えるし、鬼のようなものも描かれている。これは酒吞童子や羅生門といった、鬼が登場する物語の場面のようだ。何だろう、こういう絵を奉納すると厄除けになるとかいうことがあるのかな。
この松平忠直、てっきり大分の藩主だったのかなと思いきや、大分には流された身でやって来た人物である。そもそも徳川家康の孫で、当時の将軍秀忠から見れば甥。父の秀康の跡を継いで越前藩主となり、大坂夏の陣では真田幸村を討ち取るなどの功績をあげたが、後に越前藩主を改易され、大分に流された。藩主をクビになった理由は諸説あり、忠直が暴君で乱行をはたらいていたからというのが有名だそうだ。ただ結局は、将軍本家の力を強めるために、一族といえどもライバルとなりそうな者は排除したというところだろう。もっとも切腹を命じるということはなく、大分では「一伯公」という隠居の扱いだったそうで、本人が発願して寺の本堂や山門を寄進するくらいの財力はあったのだろう。
本堂に向かう。扉を開けて中に入ることができる。住職の筆による「霊山の由来」という案内が掲げられ、周りの装飾も新しい感じがする。ともかく、ここでお勤めである。
本堂の脇には仏足石と文珠菩薩像が立つ。文殊菩薩の台座の下には「くぐり道」があり、これを抜けると文殊菩薩の知恵が授かるというが・・・私には到底無理。
本堂の周囲にはさまざまな石仏や供養塔が並ぶ。また弁財天が祀られる池は大分市の天然記念物「オオイタサンショウウオ」(オオサンショウウオではない)が生息するという。
その一角に真新しい観音像を中心とした慰霊台がある。霊山寺は霊園も営んでいるが、昨年からは遺骨を土に返す「自然葬」を始めたとのことだ。粉末状にした遺骨をこの慰霊台の中の土に合わせるという。1300年の歴史ある寺だが、昨今の「墓事情」に何とか応えようというものである。霊山寺は天台宗の寺院だが、自然葬については宗派不問、永代供養という。
こういうのを見ると、私もどうしようかそろそろ考えなければなと思う。いやまず私自身というより、私の親についてだが。
本堂の下が本坊のようなので行ってみる。玄関に行ってみるとインターフォンに「ただいま外出しています」の貼り紙がある。あらら・・先ほどの宝満寺に続いて住職不在とは。貼り紙には「ご用の方は」ということで携帯電話の番号が書かれていたが、たかが朱印1枚のために携帯を鳴らすほどのことでもない。仮に電話して「2時間後に戻る」と言われたらどうするか。それまで待つわけにもいかない。これは宝満寺ともども、次回の大分・臼杵シリーズで改めて出直しかな。
帰る前に、松平忠直が本堂などを寄進した際に植えられたとされる杉の木や、根元に巨大な岩がある「岩抱きの紅葉」などを見る。
山頭火の句碑もあるので行ってみる。「しぐるるや しぐるる山へ 歩み入る」とある。「時雨の中を、しぐれている山の中へ歩いている」ということで、知人に宛てた便りの中では、霊山寺を訪ねた時はちょうど冬で、雨が降っていて心身にしみいるようだったとしている。句の解釈としては、冷たい雨が降ろうが、雨でぬかるんだ山道だろうが、ただひたすら歩いて行くしかない・・というそうだ。まさに修行の道である。
さてこれで折り返そうというところで、駐車場を抜けて本坊に1台の軽トラが向かうのが見えた。ひょっとして寺の人が戻ってきたのかなともう一度向かう。果たしてそうで、ちょうど玄関の扉が開いた。「どうぞ中でお参りください」と中に通される。こちらにも十一面観音を祀った仏壇がある。
記事が長くなったが、これで霊山寺を後にする。正直、大分市の見物スポットと言われても思いつくものが少なかったのだが、こういう秘境の寺院があることも今回初めて知ることができ、ありがたい気持ちになった。
今回はここで折り返しとする。再び森林セラピーロードを下り、国道210号線から国道10号線に戻る。再び別府市に戻り、先ほど寺の人が不在だった宝満寺をもう一度訪ねることに・・・。