まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第3回九州西国霊場めぐり~坂のある城下町・杵築

2021年08月08日 | 九州西国霊場

7月23日、この日も晴れで暑くなる予報である。朝に国東を出発して、大分まで回り、その後は国道を引き返すことにする。

宿の近くから大分空港道路が分岐しており、別府方面には近道なのだが、ここは通常の国道213号線をそのまま走る。穏やかな伊予灘を見ながらの運転である。

杵築の市街地に入る。国道をそのまま走ったのは杵築の城下町を見ようというものである。以前の広島勤務時にも一度来たと思うが、もうかなり昔のことである。

まず向かうのは杵築城のある城山公園。時刻はまだ8時前で、杵築城の模擬天守の手前の門は閉まっている。それでも、展望台からは海に面した高台に建つ天守を見ることができる。

杵築城が建てられたのは室町時代、木村氏による。八坂川の河口に面し、川と海に守られた天然の要害である。この木村氏は後に大友宗麟の家臣となり、戦国時代には島津氏との戦いにも耐えたが、豊臣秀吉の後に大友家を取り潰したことで豊臣氏の蔵入地となった。江戸時代には細川忠興が一時所領したが、一国一城令のために天守は破却され、藩邸は麓に設けられた。細川氏が熊本に転封となった後は、松平氏が杵築藩主として明治まで続いた。

現在の模擬天守は1970年に建てられたそうで、当時は建設費用をめぐって賛否両論あったものの、現在は市のシンボルとして親しまれているという。確かに、海と川がセットになった高台の天守閣というのも絵になるところである。

杵築の城下町も独特の造りである。クルマを走らせると商家が並ぶ通りに出る。現役の店舗も多く並ぶが、城下町らしくということか、電線も地中に埋められていて昔ながらの風情を出している。

そして、この商家が並ぶ通りの両側には石畳の坂が何本か伸びている。酢屋の坂、塩屋の坂、飴屋の坂などの名前があり、この中で観光スポットとして名高いのが酢屋の坂である。(画像は、塩屋の坂から酢屋の坂を見たところ)

城下町の特徴として、南北の高台に武士が屋敷を構え、そこに挟まれた谷間に商家が並んでいる。ちょうど武士が南北から商人を見下ろす形になっていて、観光案内の中には「サンドイッチ型城下町」と評するものもある。今も町名には「北台」「南台」というのがある。

それらを結ぶのがこうした坂道で、実に風情がある。

やはり武士は最高の身分だから高台を割当、商人どもは谷間で・・という割当もあったのだろう。いや、それ以前に港にも近く、大分方面への街道も通っていたのは谷間のほうだから、商人としては商売がやりやすかったとも考えられる。それぞれの名と実の両方が満たされる造りだったのではないだろうか。

その武士のほうも、杵築藩は3万2千石という小藩で、平地が少ないことから新田開発も行ったが財政は厳しかったようだ。そこで藩としては藩校も開き、学問も奨励したという。

その藩校と直接関係するかと言われればどうだろうかということだが、杵築藩士の家に生まれ、明治時代に法律で身を立てた金丸鉄、伊藤修という人がいる。彼らは「東京法学社」という学校を設立した。現在の法政大学である。

まだ朝の8時台ということで資料館、武家屋敷なども開館前だったが、町並みを見ることができただけでも満足である。改めて、先に進む。

日出で国道10号線と合流し、車窓も別府湾に入る。別府湾の穏やかな眺めと、リゾート地を意識させる沿道の様子である。この旅では別府に宿泊することもなく、さすがに地獄めぐりや高崎山の観光などはいいかなというところだが、この先の札所めぐりを終えたらせめて温泉だけでも入って帰ろうかと思う・・・。

コメント