10月16日、神仏霊場めぐりの2ヶ所目となる相国寺に到着。8月にも一度来ているのだが、この時は納経所が休みだったため朱印をいただけず、結局ノーカウントとした。
相国寺は例年春と秋に特別拝観を行っており、その時に行けば本堂にあたる法堂をはじめとした建物の中を見ることができるし、併設の承天閣美術館にも入ることができる。2022年の秋の特別拝観は9月17日~12月11日である。まあ、前回下手に朱印だけいただいていれば、今回特別拝観に来ることもなく、あの時はあれでよかったと思う。
前回は境内の北側から入ったが、今回は西側から入る。すぐにあるのが塔頭寺院の瑞春院。作家の水上勉が少年時代にこの寺で修行しており、その体験をもとに「雁の寺」を書いた。その作品では寺の僧侶たちの堕落した生活ぶりを描いており、読んだ私の中では勝手に「相国寺=金まみれの寺」というイメージが出来上がったこともある。そういえば水上勉には「金閣炎上」という作品もあり、こちらは実際にあった放火事件の犯人に焦点を当てたのだが、やはり禅寺の神聖さと現実とのギャップというのが・・(鹿苑寺も相国寺の塔頭寺院)。
それはさておき、拝観受付に向かう。法堂、方丈、そして開山堂の3ヶ所が公開されており、まずは法堂に行くよう案内される。なお、建物を傷つけないようリュックは背中ではなく胸で抱えるよう求められる。
現在の法堂は江戸時代初め、徳川秀頼の寄進で再建された。裏手から入り、お堂の中をぐるりとめぐる。その時、案内の方から「天井の龍に注目しながら回ってください」と言われる。天井に描かれてるのは狩野光信柞の「蟠龍図」で、堂内のどこから見ても龍の顔が回転して追いかけてくるように見える。「八方睨みの龍」として、京都の禅宗寺院の法堂に描かれることが多いそうだ。目の錯覚を利用したものである。また床面に目印があり、そこに立って手をたたくと天井が反響する。龍が鳴いているように聞こえる「鳴き龍」である。
こちらには本尊の釈迦如来が祀られており、他の拝観客のじゃまにならないようお堂の隅でお勤めとする。
次に方丈に向かう。入口に納経所が設けられており、ここで神仏霊場の朱印帳を預ける。こちらは江戸後期の文化年間の再建である。正面には白砂が敷かれ、部屋には襖絵を見ることができる。その中の間に観音菩薩を描いた掛け軸がかかっているが、この絵、全て観音経の文字でできているとある。それを拡大したパネルが縁側に置かれているが、それでもよほど近づいて見なければそうとわからない。黒い線だけでなく、赤い衣も観音経の文字で埋め尽くされている。何ともすごいとしか言いようがない。
縁側をたどり、裏方丈庭園に回る。正面の白砂とは対照的に、苔で覆われ、その中を「枯流れ」が走る。禅の深さ、深山幽谷を表現しているというが、雨水の排水という実用も兼ねているという。
朱印をいただき、最後に開山堂を訪ねる。こちらも方丈と同じ文化年間の再建で、「龍渕水の庭」という、竜安寺のような枯山水の石庭がある。相国寺の開山である夢窓疎石の像が正面にあり、その他禅宗の僧侶たちの像に交じって足利義満の像もある。
いずれの建物も立派なもので、さすがは京都五山の一つだなとうなるばかりである。相国寺はかつてはもっと広大な敷地を有しており、明治の廃仏毀釈や上知令の影響で多くの塔頭寺院が廃絶、統合により失われたが(その跡地の一部に建つのがキリスト教系の同志社大学)、ここだけは絶対に残さなければ・・ということで踏みとどまった感がある。
さて、せっかく来たのだから承天閣美術館にも行こう。1984年、相国寺の創建600年を記念して開館した美術館で、相国寺や鹿苑寺、慈照寺などが所有する文化財が収蔵されている。この時は企画展「武家政権の軌跡-権力者と寺」というのをやっていたが、ちょうどこの日(10月16日)からが第Ⅱ期の展示で、10月7日~15日はちょうど展示替えで休館だった。
相国寺は足利義満の発願で建立されて以降、歴代の足利将軍とのつながりが深かった。展示では将軍の肖像画や遺品、古文書、絵画などが紹介されている。他にも、夢想礎石の肖像画や、金閣の最上階に掲げられていた後小松天皇直筆の「究竟頂」の扁額もある。
その足利幕府も滅亡したが、相国寺はその後も織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康から寺領の安堵を受け、江戸幕府にも受け継がれた。将軍の代替わりごとに発行される寺領安堵の朱印状を入れる籠や、幕府の巡検の際に提出した宝物の目録というものも展示されている。時の武家政権と関わりを上手く持ちつつ受け継がれてきた寺の歴史がある。ただ、明治時代となると先に書いたように逆境の時代を迎える・・。
これで一通り鑑賞し、相国寺も無事に拝観を終えた。この後は行願寺革堂、そして西国三十三所ついでで頂法寺六角堂へと向かう・・・。