10月30日、日本シリーズでオリックス・バファローズが勝利しての日本一。昨年以上に印象深いシーズンとなったことである。しばらくは余韻に浸りたいものだ・・・。
・・・さて、ブログ記事は10月8日までさかのぼる。9日、10日はJRの「秋の乗り放題パス」にて中国地方を回る予定にしており、3連休初日の8日は朝一番に市内での所用があったが、それも思ったより早く終わった。ということで、スケジュールの合間を活用する形で、短い時間ではあるが広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。
広島新四国は前回までで呉エリアを終えており、次は第50番の地蔵寺である。再び広島市に戻り、今度は南区からである。南区の札所は初めてではないだろうか。そして寺の住職が驚いたように札所番号順で回っているが、その次の第51番となるとまた別のエリアに飛ぶので、この日は1ヶ所だけである。
8日、所用を終えた後に八丁堀の交差点に現れる。目指す第50番・地蔵寺があるのは南区の旭町。あの辺りは広電の宇品線からも少し離れており、公共交通機関となるとバス利用が最適である。八丁堀、紙屋町、広島駅各方面と結ばれており、利便性はそれなりにある。
まずは市街地を抜け、比治山を回り込んだ後で旭町に到着する。周囲は住宅や商店が入り込んでいて、古くから町並みが形成されていた一角である。ただ、現在は市内を貫く道路の拡張工事も行われており、工事途中の空き地も目立つ。
旭町バス停からスマホ地図を頼りに地蔵寺を目指す。バスを降りて歩く分にはどうということはないが、クルマだと路地のように狭く感じる道を走ることになる。
地図では地蔵寺にたどり着いた。しかし、そこには神社の石鳥居が建ち、空き地の向こうに神社へ続く石段が見える。
道路に面して「戦捷記念碑」と刻まれた石碑が建つ。「勝」ではなく「捷」というのも時代かかっているように見えるが、何の勝利かと裏面を見ると、「日清、「北清」、「日露」とある。「北清」とは日清戦争と日露戦争の間の時期に起きた北清事変のことだが、今では一般的に義和団事件と言われているのかな。清国が各国に応援を依頼して義和団の氾濫を鎮めたのはいいが、その後も満州に軍隊をとどめていたロシアと、それに脅威をおぼえた日本との間に緊張感が高まり、日露戦争につながっていく。この3つの戦いにあたり、この辺りから出征した兵士も多かったことだろう。
まず、その鳥居の方向に向かう。地図では「真幡神社」とあるが、鳥居の扁額を見ると「黄幡神社」とも読める。いろいろ説明書きを見ると神社名は「真幡」だが、地元の人たちは「黄幡社」として親しんでいるそうで、また中世に安芸に勢力を築いていた武田氏の本拠があった現在の安佐南区辺りでは「黄幡神社」が多いそうである。長い歴史の中で文字が変わって広まったことも考えられる。
石段のたもとに石灯籠があり、四面に何やら歌の文句のようなものが書かれている。例えば、「我々が第一に目ざす業は文明建設の真の努力である その根源は愛情でご道理にかなった無血革命である」、「昇る朝日を拝する人は多くとも 沈む夕日を拝む人の少き世の無情」とか。そうかと思えば「平和実現の基礎は権利を主張するばかりでなく義務を果す者が真の人間であり必要である 則ち権利と義務は車の両輪である」ともある。
これ、仏教の経典の一節でもないし、この神社独特の教義でもあるのかなと思ったが、1967年10月、「明治百年記念」の名目で、広島市元市会議員。大河町町会長の奥本甚作氏の奉納とある。広島といえば原爆をはじめとして戦争で犠牲になった人たちを慰霊する碑が多いイメージがあるが、この碑文はそれらとは一線を画すように見える。明治百年という節目を記念し、戦前の古き良き姿が頭にあってのことだろう。その奥本氏がそれから50年あまりが経過した現在の日本の姿を見ると、どのような檄文を寄せることだろうか・・。
石段を上り、真幡神社に手を合わせる。かつての軍人から奉納された額が正面に掲げられている。
社殿の隣に、「三代十郎兵衛の塚」というのがある。説明文によると、江戸中期の寛政年間、この大河の地に十郎兵衛という若者がいた。長身で力が強かったのを見込まれて広島の浅野家に仕えることになり、浅野侯が参勤交代で江戸に向かう時にお供を許された。
江戸でのある日、将軍家や各大名家お抱えの力士たちによる角力の御前試合が行われたが、浅野家お抱え力士が大敗する。それを見ていた十郎兵衛が飛び入りで出場し、将軍家お抱えの力士を土俵に沈めた。しかし十郎兵衛は将軍家からの報復を恐れ、江戸から一人広島に逃れて大河で身をひそめることになった。
そして浅野侯が広島に戻り、十郎兵衛は処罰を覚悟して登城したが逆にお褒めとして「望みのものは何でも与える」と言われた。そこで十郎兵衛が願い出たのは、大河周辺の海上権だった。その範囲は広く、西は廿日市市の地御前から東は坂町までの一帯だった。これにより大河の人たちは大いに潤ったという。ただその海上権も、時代が下ると証文が焼失したとか、浅野家により没収されたとか、江波の人たちとの勢力争いに敗れたとかでいつしかしぼむことになったが、それでも大河の人たちが現代に至るまで生活を維持できたのも十郎兵衛のおかげだとしてこうの石碑が建てられたという。
さて、本題の地蔵寺だが真幡神社の石段の途中にある。はっきりとは記されていないが、その位置関係を見ると、かつては真幡神社と地蔵寺は神仏習合の中で関係性があったものの、明治の神仏分離で分けられたように思われる。
一応、広島新四国のサイトによると、地蔵寺が開かれたのは江戸時代前期、大河の住民が浜に貝を獲りに出かけたところ、籠の中に入った古木を見つけ、延命地蔵として拝んだところ、大火の災難を逃れたという。その後も地元の人たちが延命地蔵に祈ることで大きな禍や疫病も逃れることができたそうだ。そして地蔵寺として多くの信仰を集めたとある。
地蔵寺は扉が開け放たれていて、いつでもお参りしてよい感じで、本堂の中も自由に上がれるようだ。そしてお勤めとする。なお、石段の下に「被爆建物」の紹介があった。爆心地から約3.5キロの場所である。
そして朱印だが、寺の人の姿は見えず、目の前の箱から書き置きを取る仕組みである。・・・しかしここで焦った。広島新四国の書置き朱印には2つのサイズがあり、私が集めているのは専用の朱印帳に貼ることができる「小」サイズであるが、ここで箱に入っていたのは「大」サイズのみである。
書き置きの紙が切れていれば寺の方に声をかけて出してもらう、あるいはその場で書いてもらえば済むことだが(これまでにも同じ経験あり)、この時に限っては「どこに声をかけてよいものやら」と迷ってしまった。隣接する建物は庫裡のようだしそうでもないようにも見える。かといって、「大」サイズを持ち帰っても他の札所の整合性に困る。
結局、またの機会にもう一度来ることにして、この日はそのまま寺を後にした。南区の比較的近いエリアにも他の札所があり、その時に立ち寄ってみよう・・・。
帰りは時間があるので少し歩いてみる。やって来たのは国道2号線に近い県立広島工業高校。野球部、サッカー部などで知られるが、横断幕には同校OBであるスワローズの高津臣吾監督の野球殿堂入りを祝う横断幕が掲げられている。訪ねた当日(10月8日)はクライマックスシリーズのファーストステージ初日というタイミングだったが、この後、高津監督率いるスワローズとの日本シリーズがあれだけの熱戦になるとは思わなかった。
広島工業出身といえば、来季からカープを率いる新井貴浩新監督もその一人である。県工の先輩-後輩対決も盛り上がってほしい。
その県工に隣接して広島陸軍被服支廠のレンガ造りの建物が並ぶ。軍服や軍靴を製造していた工場で、こちらも被爆建物である。被爆時は鉄扉が歪んだものの建物は倒壊せず、多くの被爆者が救護を求めてここにやって来たという。戦後は倉庫等にも使われ現在は空き施設だが、市民による保存運動も行われ、広島市も耐震補強を行う方針を示している。
この日は出汐からバスに乗って紙屋町に戻る。南区辺りまで来ると被爆建物もあり、かつて走っていた国鉄宇品線の跡地も一部残されている。広島が軍の町だった名残をまだまだ感じることができそうだ・・・。