11月13日、神仏霊場巡拝の道にて高野山を目指す。近畿2府6県(伊勢神宮のある三重県は除く)で和歌山県に入るのは初めてである。
高野山金剛峯寺を目指すように、和歌山10番・慈尊院に始まり、11番・丹生官省符神社、12番・丹生都比売神社と続いている。高野山といえば南海高野線に乗れば極楽橋でケーブルカーに乗れば上がることができるが、先ほどの札所の並びは、高野山町石道に近い。四国遍路の後、金剛峯寺、奥の院にお礼参りに行くのに町石道をたどろうという人もいるそうだ。まあ、今の南海線より町石道ルートのほうがまだ歩くのに適していたのだろうか。今回は3つの札所を訪ねることもあり、レンタカー利用である。
希望する時間帯ごとにあらかじめカードを受け取るシステムの朝食会場でゆったり朝食を取り、出発する。まず目指すのは和歌山10番の慈尊院。ホテルからはクルマで15分ほどで、あまり早く着きすぎて寺が閉まっていてもいけないかなと、7時40分頃に出発する。大阪勤務時代、仕事で橋本のこの辺りに何度か訪ねたことがあり、国道24号線沿いの景色にも見覚えがある。
前日は気持ちよい晴天だったが、この日は天気が崩れる予報である。朝焼けは見られたが、その反動で早くも西から厚い雲が広がって来た。
紀ノ川を渡り、九度山町に入る。富有柿の産地であり、また関ヶ原の戦いの後で真田昌幸・幸村父子が身を寄せていたことで最近では歴史好きも多く訪ねるところだが、九度山という名前の由来はこれから目指す慈尊院にある。
門前の駐車場にレンタカーを停めて山門をくぐる。「女人高野別格本山」「世界遺産」の文字がある。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成する寺である。
弘法大師が高野山を開いた際、その表玄関としてこの地に伽藍を建て、高野山の政所の機能を持たせるとともに弥勒仏を祀った。また合わせて高野山の狩場明神とその母の丹生都比売大神も祀った。当時は神仏習合だったが、それが後に分かれたのがこの後訪ねる2つの神社である。
弘法大師の母・阿刀氏(玉依御前)は空海に合おうと高野山を目指したが、当時は女人禁制だったためやむを得ず慈尊院にとどまった。そして逆に弘法大師のほうが月に9度、慈尊院まで下りてきて母を訪ねたとされる。それでこの地を九度山と呼ぶようになった。月に9度といえば3日に一度、金剛峯寺と慈尊院の間は20キロ以上あるので、ほぼ毎日のように行き来していたように見える。そこは言葉のアヤだそうで、本当に月に9度というわけではないにせよ、頻繁に訪ねていたという意味合いである。弘法大師の親を思う気持ちのエピソードが残されているということだ。
高野山へ歩いて上る、あるいは歩いて下る人それぞれに向けて、出発点であるここ慈尊院の本尊である弥勒仏に参詣するよう案内板が出ている。そしてその周りには多くの「おっぱい」が奉納されている。別にいやらしい意味ではなく、女人高野ということで安産、授乳、子育て、そして乳がんの治癒など、昔から女性の祈りを集めるようになった寺の歴史である。
その前でお勤めとする。なお、後ろの建物は拝殿で、後に回るとにこちらの中からもお参りできることに気づいた。先ほど立っていたのは拝殿と本堂の間だが、確かに法要など執り行うにはこうした拝殿のようなスペースが必要である。
境内に町石道の道標がある。「百八十町」の文字がある。ここから20キロあまりということで、歩くと6~7時間かかるという。途中、神社などにお参りすればもう少し時間がかかるから、高野山までは1日コースと見ればいいだろう。昔の人は九度山で1泊して、そして翌朝慈尊院にお参りして、その日1日かけて金剛峯寺まで上ったことだろう。
そして現在、この石段の途中にある鳥居の先は別の神社として存在する。先ほどの駐車場にも「神社に御用の方は神社の駐車場へ・・」というよそよそしい注意書きがあったのだが、どう見ても同じ敷地内だろう。そのまま、丹生官省符神社に向かう。一応、ブログとしては別記事にするが・・・。