まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大阪14番「金剛寺」~神仏霊場巡拝の道・30(河内長野は一時都だった?)

2022年11月27日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場巡拝の道、大阪11番・施福寺から大阪14番・金剛寺に向かう。このルートだが、西国三十三所の2巡目で施福寺を訪ねた後、一部関西ダイトレをたどりつつ、歩いて向かったことがある。和泉市から河内長野市へと、大阪府内でも歩いて「国境越え」した形である。

今回はレンタカー利用で、国道170号線であっさりとアクセスする。

金剛寺にはその時は新西国三十三所で訪ね、本堂にあたる金堂が改修工事中だった。鎌倉時代に建立され、江戸時代に2回、豊臣秀頼、そして岸和田藩の岡部氏による大規模な改修が行われた。そして3回目が「平成大修理」として行われた。

金剛寺は奈良時代に行基が開いたとされ、弘法大師も修行したことがあるが、現在の形になったのは平安時代末期、高野山の僧・阿観による。後白河法皇や妹の八条院の帰依を受け、女性の参詣もできたことから「女人高野」と呼ばれて信仰を集めた。

改修を終えた金堂に参拝。本尊は大日如来である。ちょうど内陣では僧侶がお勤めの最中で、理趣経が唱えられている。その外陣の片隅に座り、こちらもお勤めとする。

正面奥の五仏堂に向かう。こちらは新西国の本尊である千手観音を祀っている。豊臣秀頼により改修された建物の一つ。各地に、豊臣秀頼により再建、改修という寺社の建物があるが、秀頼が信仰心あふれる人物だった面もある一方で、徳川家康が寺社の再建に金を使わせることで豊臣氏の財力を削いだ・・という見方もある。

五仏堂に接しているのが弘法大師を祀る御影堂、そして後村上天皇が月を愛でた観月亭がある。後村上天皇は後醍醐天皇の後の南朝の天皇だが、京を追われ、金剛寺で政務をとっていたことがある。なお、御陵は観心寺の中にある。

金剛寺はこのように南北朝の戦いの舞台ともなったところである。楼門を出て、塔頭の一つである摩尼殿に向かう。後村上天皇の行在所であり、その御座所も保存されている。

南北朝の戦いも結構複雑なもので、一時的には南朝が優位に立っていたこともある。その時南朝は北朝の光厳、光明、崇光の3人の上皇を捕らえ、塔頭の観蔵院に住まわせた。このエリアは拝観受付も別にあり、観蔵院、庭園、そして宝物館が見学できる。

南北朝の天皇、上皇が同じ場所にいた・・・それも河内長野に。河内長野じたいは難波、和泉、高野山含む紀伊山地ともつながる交通の要衝であるが、本来京にいるはずの天皇、上皇が戦いのたびに都から離れた地に逃れなければならなかったというのが、時代の混迷をうかがわせる。一時、河内長野に都があった・・とも言えるが。

境内の紅葉も楽しむことができ、金剛寺とセット・・というわけではないが、続く大阪15番・観心寺に向かう。路線バスならいったん河内長野駅に出るが、そこはレンタカーの利点で途中ショートカットする・・・。

コメント