まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

西国四十九薬師めぐり~今回は紀伊半島一周ということで

2021年08月13日 | 西国四十九薬師

7月末から8月にかけての予定がいろいろ出揃った。

まずは7月31日~8月1日にかけて、西国四十九薬師めぐり。8月7日~9日は休養として、13日~14日または14日~15日は中国四十九薬師めぐりプラス中国山地のローカル線めぐり(この記事を書いている8月13日、広島県は大雨に関する特別警報も出ているのだが・・)。8月28日~29日は、29日に京セラドーム大阪での野球観戦を絡めるとして(何とかチケット確保)、その前日の28日は、(行き先がどこになるかわからないが)西国四十九薬師めぐりにあてることにする。

今回の西国四十九薬師めぐり、8月中旬の夏休みに絡めようかとも思っていたが宿泊の関係でこの日に行うとした。どこに泊まるかはおいおい触れることに。

目的地は第35番の神宮寺。三重県の多気町にあり、公共交通機関なら紀勢線の栃原から歩いて1時間くらいか。平日なら日に何本かコミュニティバスが出ているようだ。西国四十九薬師めぐりの中でもっとも南東部に位置するところだ。前回の高野山に引き続き遠方となる。

そして、タイトルに「紀伊半島一周」としたのは、ここに西国三十三所めぐりの3巡目を合わせるためだ。3巡目、第1番の青岸渡寺だけがポツンと残っていて、三重まで行くなら和歌山も・・と1泊コースとする。

まずは新大阪まで行くことに。7月31日、広島6時53分発の「こだま838号」。早朝、広島から東に安く向かう定番列車の一つである。今回は「こだま」限定の「新幹線直前割きっぷ」を投入する。前回6月、大阪からの帰りにこのきっぷを予約しようとして満席だったのだが、今回は無事に確保できた。前回は時季的なものがあったのかな。

各駅に停車して、9時18分に新大阪着。ここから多気町に行くならば難波まで出て近鉄特急で松阪、紀勢線に乗り継ぎ・・というところだが、今回はレンタカーで回ることにした。

向かったのは、新大阪駅から新御堂筋に沿って北に5分ほど歩いたところのオリックスレンタカー。翌8月1日の18時までの利用で9240円。給油は別途必要だが、神宮寺だけならともかく、その先那智の滝まで行くことを考えると安上がりではないかと思う。そりゃ、紀勢線に乗って黒潮の眺めを見るのがいいのだが・・。

ということで三重県に向かって出発するのだが、レンタカーを使うならばということで、目的地を一つ追加することにした。西国四十九薬師の第36番・弥勒寺である。弥勒寺は名張市にあるが、同じ近鉄シリーズということで橿原市の久米寺と一緒の選択肢としていた。ただ、今回は阪神高速~西名阪自動車道~名阪国道と通る中で、ちょっと立ち寄るくらいで弥勒寺に行くことができる。せっかくなので、同じ三重県シリーズとして一緒に回ることにしよう。

乗り込んだのはホンダのフィット。

まずは新御堂筋を走り、大阪市街地に入る。南森町から阪神高速に入り、大阪市街を通過してそのまま西名阪自動車道に入る。すぐそばに実家があるのだが今回はあくまで三重・和歌山両県が目的地ということで素通りする。

大阪府から奈良県に入り、天理料金所を過ぎる。ここから国道25号線、名阪国道である。この道を走るのも実に久しぶりだ。西名阪・東名阪の両高速道路に挟まれた一般国道で、そのことを強調する標識がいくつも並ぶが、制限速度60キロを厳守するクルマなどほとんどいない。無料ということで名阪間の移動でよく使われるルートだが、急勾配、急カーブも多く、そこを高速で走るものだから事故も多い。天理東インター~福住インターにかけてはΩ形のカーブがある。今回は上りなのでまだよいが、逆に天理方向に下る時はヒヤリとするところである。

まあそれでも片側2車線、登坂車線が加われば3車線あるので、走る分にはまだ気楽である。地方の無料高速道路だと片側1車線というところが多いのだが、そうしたところを軽自動車やコンパクトカーで走っていて後ろからトラックや飛ばし屋にあおられることを思えば・・。

三重県に入ってすぐの治田インターで下車。工業団地、ゴルフ場の横などを過ぎる。弥勒寺に行くなら近鉄大阪線の桔梗が丘駅が玄関口で、駅からバスに乗るのだが、裏側から回るような感覚だ。でもまあ、こうした形で三重県に入ることになったのもいい経験である。

時刻は11時すぎ、里山の景色の中に堂々とした構えの弥勒寺に到着・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~山陽小野田厚狭にて一泊、そして帰広

2021年08月12日 | 九州西国霊場

大分から広島への帰途、山口は山陽小野田に宿泊する。このまま運転を続けてもいいのだが、せっかくの連休ということと、宿泊経験地を増やそうということで、山口県内で泊まったことがないここで一泊とする。

山陽線、美祢線が接続する厚狭駅。1996年には山陽新幹線の駅も開業したが、唯一「こだま」しか停車しない駅である。ここに駅ができたのは宇部方面、長門市方面への便宜を図ってのことだろうが、「こだま」しか停まらなくても新幹線があるだけありがたく思えということかな。

厚狭といえば、その昔臨時夜行で走っていた「ふるさとライナー九州」、「ムーンライト九州」を思い出す。京都・大阪から博多に向かう座席列車だが、翌朝の最初の停車駅が厚狭だった。そのため、「次は厚狭(朝)まで停まりません」という洒落のアナウンスが流れて・・。

駅前にはマスク姿の銅像が建つ。「三年寝太郎」の像である。三年寝太郎は民話の一つだが、舞台となったのはこの厚狭だという。この話の中身とは・・。

庄屋の息子である太郎は仕事もせずに寝てばかりで、周りから「寝太郎」と呼ばれていた。3年寝ていた太郎が急に起き出し、父親に千石船と船一杯の草履を作るよう頼む。父親がそうしてやると、太郎は船を漕いでどこかに行ってしまう。

数十日して、船一杯に土がついてぼろぼろの草履を積んで太郎が帰ってきた。そして、太郎が大きな桶で草履を洗うと、土の中から砂金が出てきた。太郎が行っていたのは佐渡の金山で、そこで働いていた者たちの草履を交換していたのだった。太郎はこの砂金を元手に堰を造り、灌漑水路を引いて田畑を開き、村の人たちに分け与えたという。

この話には寝太郎のモデルとなった人物がいて、実際に厚狭川の堰や用水路を築いたという。そこに3年寝ていたとか、佐渡に行ったとかいう話がつけ足されて民話になったそうだ。

さて、厚狭といって書くことが少ないからと三年寝太郎について触れたのだが、そろそろホテルにチェックインしよう。この日の宿はエクストールイン山陽小野田厚狭。まだ新しい建物のようだ。

チェックインすると、「以前にもご利用いただいていますね」と声をかけられる。いや、ここは初めてなのだが・・と不思議に思っていると、「高松のホテル川六エルステージにお泊りですね」と加えられる。高松のこのホテルは四国八十八ヶ所めぐりの時に泊まったことがあるが、エクストールインは同じく株式会社川六が展開するホテルチェーンである。高松宿泊時と住所は変わっているが、名前と携帯電話番号で紐づいているのかな。

時刻は17時を回ったあとで、今夜は一献とするか。ただ、新幹線も停まる駅とはいっても駅周辺がそれほど賑わっているわけでもなさそうだ。

事前にネットで検索していたが、ホテルすぐ近くの「憩いの場」という店に向かう。店の外観からして私のような一見にはちょっと入りにくいように思うが、店のホームページがあり、そこで料理のあれこれがチェックできたので入ってみる。

早い時間で先客が1組いるだけ。店は大衆酒場というには小粋な感じで、たまにはこうした雰囲気の居酒屋もいいだろう。

最初のビールを持って来た後、この後の注文は紙に書いてベルで店員を呼ぶようにと言われる。メニューそれぞれに番号が振られていて、これを紙に書いて渡す。コロナ対策というよりは、注文を聞く店員の負担を減らすためのようだ。

メインは長州鶏の唐揚げとクジラの竜田揚げ。横にあるのは東京五輪オフィシャルビールのアサヒスーパードライ。アサヒはこうしたところの戦術には長けてますな。

刺身の盛り合わせはヒラマサとアジ。こちらも美味しくいただく。

アテで結構力が出ていたのが冷奴。豆腐一丁がドンと出るのではなく細かく切り分けていて、薬味をいろいろ変えながら楽しむことができる。

その冷奴と相対したのが、厚狭の酒蔵である永山酒造が出す「山猿」。山口の酒といえば「獺祭」が知られているが、それだけではないぞという感じである。

この店の名物は〆のラーメンだそうだが、まあそれはいいとして店を後にする。部屋用でコンビニで買い物をしながらほんの少しぶらつく。

その周りで目立つのが、衆議院山口3区選出の河村建夫議員(元官房長官)関連。河村氏は萩の出身だが、山口県の4つの小選挙区は県を南北に切った形に近く、3区は宇部市、山陽小野田市、美祢市、阿武郡、萩市などが含まれる。瀬戸内側と日本海側の両方にまたがる選挙区設定も結構乱暴だと思うが、さまざまな事情でそうなったのだろう。

ちょうど私が厚狭に来た数日前、参議院の山口選挙区選出の林芳正議員(元文部科学大臣)が、次の総選挙で山口3区に鞍替え立候補する意向を表明した。現職の河村氏(二階派)に鞍替えの林氏(岸田派)が挑む形で、派閥の代理戦争とも言われている。立候補をめぐって早速さまざま応酬が交わされているようだが、自民王国の山口県にあって果たして結果はどうなるだろうか。

ホテルに戻り、大浴場にて一浴。この後は部屋でのんびりする。

宿泊した7月23日は東京五輪の開会式が行われた。これを書いている時はもう終わったのだが、私はその後の競技、閉会式を含めてテレビで観ることはなかった。今回の東京五輪の招致以来のグダグダぶり、そして昨今のコロナ禍の中での政府や東京など関係者の対応、さらにマスゴミの手のひら返し(かねてからの絶叫実況や偏向報道)、ダブルスタンダードにあきれ返っていて、五輪放送そのものを最初から嫌っていたので・・。

さて早朝、バイキング形式の朝食を取った後、7時すぎにチェックアウト。

ここまで来たのだからと国道2号線の下道、バイパスを通る形でひたすら走る。途中、周南市に入った「道の駅ソレーネ周南」で休憩、買い物を挟み、広島県に入って宮島口駅前近辺で多少渋滞していたが、スムーズに広島に戻ることができた。

こうして延々と下道を走ったことで、往路で利用した周防灘フェリーが、費用はかかるものの所要時間短縮に大きな役割をしているのだなというのを感じることができた。

次の九州西国霊場にはそう遠くないタイミングで出るだろうが、今から楽しみである・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~別府温泉から関門海峡をくぐる

2021年08月11日 | 九州西国霊場

7月23日、大分市郊外の山中にある霊山寺の参詣を終えて、広島に向けて引き返す。九州西国霊場の次回シリーズは大分市~臼杵市を訪ねる予定で、またどのようなルート・手段でアクセスするか考えるのが楽しみである。また臼杵といえば石仏で知られるところで、また石の国大分を感じることだろう。

国道10号線を走り、東別府駅の手前で細い道に入る。今朝がた参詣した第7番の宝満寺に再度向かう。その時納経所が留守だったので、再訪しようというもの。まあ、仮に今度も不在だったとしても、ここならまだ次回も立ち寄りで何とかなりそうなところだ。

山門横の空き地にクルマを停め、石段を上がる。今度は直接納経所を訪ねてインターフォンを鳴らす。中のほうで音がする。よかった、いらっしゃったようだ。

別に朝一度来たことを言う必要はなく、そのままありがたく朱印の紙をいただく。これで、元々無住の寺で事前に案内もあった第2番の長安寺は別として、第1番から第8番までがつながった。

これで安心して帰宅できるが、やはり別府に来たのだから最後は温泉に浸かろう。過去に入った外湯といえば竹瓦温泉の砂湯や駅前高等温泉などがあるが、今回向かったのは国道10号線沿いにある北浜温泉テルマス。テルマスとは、ラテン語で浴場を意味するとか。このテルマスは別府の市営だという。

ちょうど海岸の近くにあり、建物も立派な造り。1998年の開業で、内湯のほか、水着着用の屋外健康浴もあるという。水着は持っていないので内湯だけで十分。また2階の休憩室からは別府湾や高崎山を眺めることができ、正月には初日の出を見ることもできるという。

これだけ見れば素晴らしいところなのだが、実は別府市はこのたびこのテルマスの廃止の方針を固めたという。受付にもそのような発表の紙が出ていた。ネットの地元紙の記事によれば、大型施設のため管理運営費がかさみ、以前から毎年約3千万円の赤字が出ていること、開業から20年以上経過して設備の更新時期が近づく中でさらなる財政負担がかかることなどが考慮され、廃止の方針となったようだ。なお、数ヶ月は営業する見通しだが、施設のその後は未定とのこと。

別府は国際的にも有名な温泉地であるし、テルマスの立地条件もいいと思うのだが、なまじ立派なものを造ってしまったために経営が苦しくなったのは残念なことだろう。途中から運営を市の直営から民間委託に切り替えたそうだが、それでも改善にはいたらなかったようだ。

それはともかくとして入浴することに。シャワーやお湯のカランもある。大浴槽は2種類あり、通常の湯と高温の湯に分かれている。その高温も熱いのは熱いが、入れないほどではない。また外には露天風呂、蒸し風呂があり、しばしリラックスする。

入浴後、しばらく2階の休憩室でくつろぐ。こうした造りのスーパー銭湯なら全国各地にあり、週末など賑わうと思うのだが、別府では逆に特徴のない温泉に見えるのかな。地元の人が安く手軽に入れる公衆浴場でもなく、砂湯や地獄のような独特のものでもない。また豪華な食事付きのホテルの温泉でもない。そうしたことも絡み合ってのことかな・・。

温泉で整ったところで、これから国道10号線をひた走る。その前に昼食をということで(普段の生活では絶対そのようなことはないが、どこかに出かけると私の場合昼食が「欠食」になることが多い。前日の国東半島もそうだった)、ラーメンなんかいいかな。テルマスを出たすぐのところに店があったが、人気なのか長い列ができている。並んでまではいいかなと、もうしばらく走らせて、国際観光港の向かいにある「晴れる家」という店を見つける。

スープは豚骨ベースだがいくつか種類があり、魚介醤油豚骨スープのものを注文。セットで、大分名物のとり天を追加する。普通の豚骨スープと食べ比べたわけではないが、醤油が加わっている分、こってり度も多少穏やかになっていて、食べやすかった。

さてこれで腹ごしらえもできて、ハンドルを握る。時刻は13時を少し回ったところ。この先関門トンネルをくぐるので国道10号線とはその手前でお別れだが、まず北九州までは110キロあまり。先ほど通った別府湾沿いのコースを走る。

日出で国東半島への国道213号線と別れ、山の中に入る。その中に不意に大きな駐車場が現れたのはハーモニーランド。サンリオキャラクターのテーマパークである。連休中ということもあってか、駐車場もほぼ満車のようだ。

日豊線の線路とも並走する。特急は頻繁に行き交うが鈍行の本数が少なくなる区間だ。中山香、立石といった駅のすぐ近くも通る。

「WELCOME TO USA」の看板を過ぎる。USA・・・ベタだが、宇佐市に入った。鳥居とUSAの組み合わせというのも遊び心がある。この先中津までは前回レンタカーで走ったところ。六郷満山めぐりの出発地である宇佐神宮の前も過ぎるが、今回はクルマの中から手を合わせるにとどめる。

山国川を渡って福岡県に入る。東九州自動車道に続くバイパスの椎田道路との分岐点にある道の駅「豊前おこしかけ」に休憩を兼ねて立ち寄る。

「おこしやす」ではなく「おこしかけ」とはどういう意味か。その昔、神功皇后が豊前に来た時にこの辺りで休憩し、その地にあった石に腰掛けたことから、「おこしかけ」という地名が生まれたという。神功皇后は熊襲との戦い、三韓征伐と自ら遠征軍を率いたという伝説がある。そして宇佐神宮の祭神の一つとしても祀られている。今回クルマで来ていることもあり、地元の土産物などいろいろ買い求める。後々、夕食や酒のお供で楽しめることだろう。

そのまま10号線を走り、行橋からは行橋バイパスに出る。そして北九州市に入り、下曽根から国道10号線に別れを告げて県道25号線に入る。ちょうど九州の付け根に入ったところで、東側の海岸を行く。見覚えのある景色に来たと思うと、ちょうど大阪へのフェリーが出る新門司港だった。

最後は門司港駅の近くで国道2号線に合流して、関門トンネルに入る。別府を出て3時間ほどで九州の端にたどり着いた。この国道トンネルをくぐるのも久しぶりで、通行料金は軽自動車で110円、普通車で160円。九州側から入るクルマ、本州側から出てくるクルマ、双方向ともひっきりなしに行き交っている。

関門海峡をクルマで渡るにはこの国道トンネルと高速道路の関門橋があるが、現在、第3のルートとして「下関北九州道路」というのが計画されている。国道トンネル、関門橋も開通してから年月が経過しており、補強工事などで通行止めになることもしばしばあることから、かねてから別ルートの必要性が言われていた。関門海峡を河川になぞらえて、日本で有数の長さ、幅を持つ信濃川や吉野川に多くの道路橋が架けられていることを引き合いに出して、橋があることで両岸の経済交流が活発になるとして、新たな道路の整備をアピールする資料もある。確かに、この辺りは海峡を挟んで一つの経済圏と言えるだろう。

一方で無駄な公共事業だと反対したり、断層があるとして地震災害を懸念する声もあった。そういえばということで、下関側が安倍晋三、北九州側が麻生太郎の地元(現在の選挙区に北九州市は含まれていないが)ということから、当時の国土交通副大臣が「私が(両氏に)忖度して予算をつけた」という主旨の発言があり、利益誘導との批判の声があがったこともあった。その道路である。

いろいろあったが、このたび、下関の彦島と小倉の日明間で吊り橋にて建設される運びとなった。現在の橋・トンネルと比べるとかなり西側を通るそうで、両市の中心部の移動時間の短縮や、行き来する圏域人口の増加が見込まれる。確かに、片側1車線ずつの現在の国道トンネルも危なっかしいし、ルートの選択肢は複数あったほうがいいだろう。開通するのはいつのことになるかだが・・・。

そのまま国道2号線を進む。このまま下道、バイパスを走っても夜遅くには広島に戻れるのだが、ここはあえて途中でクルマを停め、1泊とする。翌24日は所用のため午前中には広島にいる必要があるが、1泊しても翌日出れば十分間に合うし、山口県での宿泊地を増やしておこうという狙いもある。

そして着いたのが、新幹線なら新下関から1駅の厚狭。市でいれば山陽小野田市・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~第8番「霊山寺」(大分での霊験感じる札所)

2021年08月10日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりも、これから大分市に入る。この先大分県内は大分市、臼杵市、豊後大野市に札所が点在しており、その次は熊本県阿蘇に入る。九州めぐりでも残念ながら宮崎、鹿児島両県には行くことがない。

九州西国霊場は今からおよそ1300年前に仁聞菩薩、法蓮法師によって開かれたとされるが、その起こりは英彦山や国東半島を中心とした古くからの山岳信仰と仏教が融合したものという。また、当時はまだ南九州には仏教文化が行き渡っていなかったという。記録に残る最古の寺院は日向、大隅、薩摩の国分寺というが、それが開かれたのも他の国と比べて遅かったそうだ。

ただ、それ以降の歴史もあり、この両県は仏教不毛の地といってもいい。特に鹿児島は島津藩による仏教弾圧、そして明治の廃仏毀釈を徹底するなど、ひどいものだ。まあ、薩摩の芋侍が大きな顔をするかわいそうな土地だから仕方なかったのだろう。

そんな仏教不毛の宮崎・鹿児島にもさすがに現在は八十八ヶ所めぐり、四十九薬師めぐり、三十六不動めぐりと札所が開かれているが、どうなのかね。

・・・それはさておき、これから目指す第8番の霊山寺(りょうぜんじ)は大分市といっても市街地からは南に離れた山中にある。地図を見ると豊肥線、久大線いずれの最寄り駅からも離れており、公共交通機関で行くならば、大分駅から大分バスで30分あまり走った住宅団地のグリーンハイツ入口まで行き、、そこから山道を歩くのが最も近いようだ。バスも1時間に1本ほど出ており、まあ、行けないことはないかなというところ。ただ、九州西国を回るにあたり、そこまで公共交通機関利用にこだわりは持たないことにしたので(現実的ではない)、参考程度ということで(実際にバス+徒歩となると、それだけで半日仕事になる)。

クルマは大分駅の手前で国道10号線から国道210号線に入る。久大線に沿って日田方面に向かう道で、大分のメインストリートの一つということで交通量もそれなりにあり、沿道には商店なども目立つ。東九州自動車道を過ぎ、田尻地区で国道から住宅街に入る。

田尻小学校の横から山中に入る道が延びている。「霊山セラピーロード」という看板もある。霊山寺まで車道は通っているが、標高およそ600メートルの霊山は手軽に森林セラピーが楽しめるスポットとして地元の人たちに親しまれているそうだ。この後の上り下りでもそうした出で立ちの人をポツポツと見かけた。

坂を上る集落の中で丁石を見かける。九丁、そしてその後は十丁から十二丁とある。霊山寺への道しるべだが、ここの丁石は数が増える方式のようだ。九州西国霊場を歩いた種田山頭火が知人に宛てた便りには「二十丁の山路」とあったそうで、とすると参道の起点は田尻の住宅地あたりかなと思う。

もっとも山頭火が歩いたであろう山道とはこの後別れ、クルマはカーブの続く車道へと向かう。

その途中、道幅が少し広がり、ベンチが置かれたところがある。前の木々が切り開かれて、ちょうど大分の市街地、沿岸の工場群などを遠くに見ることができる。結構高いところまで来たものだ。

駐車場が広がり、霊山寺の山門前に到着。他の参詣者の姿は見えないがクルマが何台か並んでいるのは、ここに駐車して霊山の頂上に向かう人なのだろう。

「霊山寺」と書く寺はこれまでにも出会ったことがある。ここ大分は「りょうぜんじ」だが、四国八十八ヶ所めぐりの第1番、鳴門にあるのは「りょうぜんじ」。また、西国四十九薬師めぐりの第2番、奈良にあるのは「りょうせんじ」。

ここ大分の霊山寺は標高約360メートルにあるそうで、霊山のちょうど中腹にあたる。開かれたのは和銅元年、山麓の豪族が山中で十一面観音像を発見し、祀ったのが最初とされる。その後、中国の僧である那伽法師が来た際、この山の地勢が、釈迦が説法したインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていたことに感動し、伽藍を建てて霊山寺と名付けた。

この霊山寺という名前だが、奈良の霊山寺の場合も別の僧だったが、同じく霊鷲山から取ったという話を聞いた。四国の霊山寺については、山の地勢からではないが、弘法大師がその地で修行している際、霊鷲山で釈迦が説法した情景を感得し、インドの霊山を日本に移すという意味で名前がついたという。いずれにしても釈迦に由来したありがたみを感じる名前といっていいだろう。

ここには伝教大師最澄、弘法大師空海、慈覚大師円仁なども訪れたとされる。大友氏の庇護を受けていたが、島津氏との戦いの中で多くの建物が焼失した。江戸時代になり、松平忠直によって本堂や山門などが再建され現在に至る。

仁王門をくぐり、山門に出る。その壁にはさまざまな異なる彫刻絵が描かれている。うっすらと色が残っていて、何やら昔話のように見えるし、鬼のようなものも描かれている。これは酒吞童子や羅生門といった、鬼が登場する物語の場面のようだ。何だろう、こういう絵を奉納すると厄除けになるとかいうことがあるのかな。

この松平忠直、てっきり大分の藩主だったのかなと思いきや、大分には流された身でやって来た人物である。そもそも徳川家康の孫で、当時の将軍秀忠から見れば甥。父の秀康の跡を継いで越前藩主となり、大坂夏の陣では真田幸村を討ち取るなどの功績をあげたが、後に越前藩主を改易され、大分に流された。藩主をクビになった理由は諸説あり、忠直が暴君で乱行をはたらいていたからというのが有名だそうだ。ただ結局は、将軍本家の力を強めるために、一族といえどもライバルとなりそうな者は排除したというところだろう。もっとも切腹を命じるということはなく、大分では「一伯公」という隠居の扱いだったそうで、本人が発願して寺の本堂や山門を寄進するくらいの財力はあったのだろう。

本堂に向かう。扉を開けて中に入ることができる。住職の筆による「霊山の由来」という案内が掲げられ、周りの装飾も新しい感じがする。ともかく、ここでお勤めである。

本堂の脇には仏足石と文珠菩薩像が立つ。文殊菩薩の台座の下には「くぐり道」があり、これを抜けると文殊菩薩の知恵が授かるというが・・・私には到底無理。

本堂の周囲にはさまざまな石仏や供養塔が並ぶ。また弁財天が祀られる池は大分市の天然記念物「オオイタサンショウウオ」(オオサンショウウオではない)が生息するという。

その一角に真新しい観音像を中心とした慰霊台がある。霊山寺は霊園も営んでいるが、昨年からは遺骨を土に返す「自然葬」を始めたとのことだ。粉末状にした遺骨をこの慰霊台の中の土に合わせるという。1300年の歴史ある寺だが、昨今の「墓事情」に何とか応えようというものである。霊山寺は天台宗の寺院だが、自然葬については宗派不問、永代供養という。

こういうのを見ると、私もどうしようかそろそろ考えなければなと思う。いやまず私自身というより、私の親についてだが。

本堂の下が本坊のようなので行ってみる。玄関に行ってみるとインターフォンに「ただいま外出しています」の貼り紙がある。あらら・・先ほどの宝満寺に続いて住職不在とは。貼り紙には「ご用の方は」ということで携帯電話の番号が書かれていたが、たかが朱印1枚のために携帯を鳴らすほどのことでもない。仮に電話して「2時間後に戻る」と言われたらどうするか。それまで待つわけにもいかない。これは宝満寺ともども、次回の大分・臼杵シリーズで改めて出直しかな。

帰る前に、松平忠直が本堂などを寄進した際に植えられたとされる杉の木や、根元に巨大な岩がある「岩抱きの紅葉」などを見る。

山頭火の句碑もあるので行ってみる。「しぐるるや しぐるる山へ 歩み入る」とある。「時雨の中を、しぐれている山の中へ歩いている」ということで、知人に宛てた便りの中では、霊山寺を訪ねた時はちょうど冬で、雨が降っていて心身にしみいるようだったとしている。句の解釈としては、冷たい雨が降ろうが、雨でぬかるんだ山道だろうが、ただひたすら歩いて行くしかない・・というそうだ。まさに修行の道である。

さてこれで折り返そうというところで、駐車場を抜けて本坊に1台の軽トラが向かうのが見えた。ひょっとして寺の人が戻ってきたのかなともう一度向かう。果たしてそうで、ちょうど玄関の扉が開いた。「どうぞ中でお参りください」と中に通される。こちらにも十一面観音を祀った仏壇がある。

記事が長くなったが、これで霊山寺を後にする。正直、大分市の見物スポットと言われても思いつくものが少なかったのだが、こういう秘境の寺院があることも今回初めて知ることができ、ありがたい気持ちになった。

今回はここで折り返しとする。再び森林セラピーロードを下り、国道210号線から国道10号線に戻る。再び別府市に戻り、先ほど寺の人が不在だった宝満寺をもう一度訪ねることに・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~第7番「宝満寺」(別府市街・別府湾を見渡す寺)

2021年08月09日 | 九州西国霊場

杵築から別府市街に入り、国道10号線沿いの中心部を過ぎる。これから本題の九州西国霊場めぐりで、まず目指すのは第7番の宝満寺。これまで英彦山、中津・宇佐、国東半島と回り、九州西国も次のステージに入ったようだ。

カーナビに従い、東別府駅近くで国道10号線から日豊線のガード下をくぐる。山の斜面に住宅が密集し、道幅が狭い中を行く。この宝満寺は東別府駅から徒歩15分ほどと、九州西国霊場の中でも珍しく?公共交通機関でアクセスできるところなのだが、ただ駅からはひたすら上りである。歩いたら汗だくになりそうだ。

別府市街を見渡す開けた一角に出る。ここに宝満寺がある。寺の前には「田の口」と書かれたバス停があり、日に数便やって来るようだ。寺の駐車場とは書かれていないが、寺の横に駐車スペースがあるので、こちらに停めさせてもらう。

門の脇には薬師如来、馬頭観音などの石像が並ぶ。いずれも別府市街、別府湾の方角を向いている。

石段を上がると山門があるが、門扉や仁王像などはなく簡素なもの。上がったところには本坊があるので、後に朱印で立ち寄ることにする。寺のお堂はこの上にあるようだ。

狭い坂を上る。「冥界の道」として、「餓鬼」「畜生」などの札が立つ。やがて「人間」となり、上るにつれて仏へと近づくようだ。そして最後は「菩薩」、「仏」である。そこでたどり着いたのが本堂の観音堂である。

本堂からの眺めはよく、「冥界の道」を抜けたご褒美のようでもある。

扉の鍵はかかっておらず、中に入ってのお参りができそうだ。

宝満寺は別府でもっとも古い寺と伝えられる。開いたのは例によって仁聞菩薩で、本尊の十一面千手観音像は聖徳太子の作という。鎌倉時代には大友氏の保護を受け、宇佐八幡の神宮寺だった弥勒寺の末寺として六郷満山ともつながりがあったそうだ。別府に来てもまだまだ六郷満山の影響は続くのかな。

その後兵火に遭うなどして一時衰退したが江戸時代の中期に再興し、現在地に移ったのは大正の頃という。

本堂の裏には石仏が並ぶ。中央に十一面千手観音があり、数からみれば西国三十三所の本尊が集まっているかと思うが、それだと数が足りない。この石仏のほうが、現在の本堂よりも先にあったのかなと推察する。

これで納経所に向かう。時刻は9時を回ったところ、納経の時間は問題ないだろう。納経所といっても普通の家屋の玄関で、インターフォンを鳴らす。ところが応答がない。扉に手をかけたが鍵がかかっている。ひょっとしてお留守かな・・。これもローカル札所ならではの出来事。

幸いにというか、この次の札所に向かった後、帰りも同じ国道10号線を通る。帰りにもう一度立ち寄ってみることにする。その時にいなければ・・また考えることに。

細道を下って国道10号線に出る。別府と大分を結ぶ区間で、海沿いの穏やかなところを走る。暑い中だが、歩道をジョギングする人も目立つ。ここは長い歴史を持つ別府大分マラソンのコース(2021年は延期)にもなっている。

うみたまご、高崎山の入口を過ぎ、田ノ浦ビーチに立ち寄る。別府湾の眺めがよく、市街地も遠くに見える。遊具も整備されていて家族連れで楽しむもよし、また木陰のベンチで海を眺めながらのんびり過ごすのもよし。

クルマは大分市に入り、第8番の霊山寺を目指す。今度は一転して山の中だ・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~坂のある城下町・杵築

2021年08月08日 | 九州西国霊場

7月23日、この日も晴れで暑くなる予報である。朝に国東を出発して、大分まで回り、その後は国道を引き返すことにする。

宿の近くから大分空港道路が分岐しており、別府方面には近道なのだが、ここは通常の国道213号線をそのまま走る。穏やかな伊予灘を見ながらの運転である。

杵築の市街地に入る。国道をそのまま走ったのは杵築の城下町を見ようというものである。以前の広島勤務時にも一度来たと思うが、もうかなり昔のことである。

まず向かうのは杵築城のある城山公園。時刻はまだ8時前で、杵築城の模擬天守の手前の門は閉まっている。それでも、展望台からは海に面した高台に建つ天守を見ることができる。

杵築城が建てられたのは室町時代、木村氏による。八坂川の河口に面し、川と海に守られた天然の要害である。この木村氏は後に大友宗麟の家臣となり、戦国時代には島津氏との戦いにも耐えたが、豊臣秀吉の後に大友家を取り潰したことで豊臣氏の蔵入地となった。江戸時代には細川忠興が一時所領したが、一国一城令のために天守は破却され、藩邸は麓に設けられた。細川氏が熊本に転封となった後は、松平氏が杵築藩主として明治まで続いた。

現在の模擬天守は1970年に建てられたそうで、当時は建設費用をめぐって賛否両論あったものの、現在は市のシンボルとして親しまれているという。確かに、海と川がセットになった高台の天守閣というのも絵になるところである。

杵築の城下町も独特の造りである。クルマを走らせると商家が並ぶ通りに出る。現役の店舗も多く並ぶが、城下町らしくということか、電線も地中に埋められていて昔ながらの風情を出している。

そして、この商家が並ぶ通りの両側には石畳の坂が何本か伸びている。酢屋の坂、塩屋の坂、飴屋の坂などの名前があり、この中で観光スポットとして名高いのが酢屋の坂である。(画像は、塩屋の坂から酢屋の坂を見たところ)

城下町の特徴として、南北の高台に武士が屋敷を構え、そこに挟まれた谷間に商家が並んでいる。ちょうど武士が南北から商人を見下ろす形になっていて、観光案内の中には「サンドイッチ型城下町」と評するものもある。今も町名には「北台」「南台」というのがある。

それらを結ぶのがこうした坂道で、実に風情がある。

やはり武士は最高の身分だから高台を割当、商人どもは谷間で・・という割当もあったのだろう。いや、それ以前に港にも近く、大分方面への街道も通っていたのは谷間のほうだから、商人としては商売がやりやすかったとも考えられる。それぞれの名と実の両方が満たされる造りだったのではないだろうか。

その武士のほうも、杵築藩は3万2千石という小藩で、平地が少ないことから新田開発も行ったが財政は厳しかったようだ。そこで藩としては藩校も開き、学問も奨励したという。

その藩校と直接関係するかと言われればどうだろうかということだが、杵築藩士の家に生まれ、明治時代に法律で身を立てた金丸鉄、伊藤修という人がいる。彼らは「東京法学社」という学校を設立した。現在の法政大学である。

まだ朝の8時台ということで資料館、武家屋敷なども開館前だったが、町並みを見ることができただけでも満足である。改めて、先に進む。

日出で国道10号線と合流し、車窓も別府湾に入る。別府湾の穏やかな眺めと、リゾート地を意識させる沿道の様子である。この旅では別府に宿泊することもなく、さすがに地獄めぐりや高崎山の観光などはいいかなというところだが、この先の札所めぐりを終えたらせめて温泉だけでも入って帰ろうかと思う・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~国東をくるっと回って一泊

2021年08月07日 | 九州西国霊場

7月22日、九州西国霊場の2ヶ所を回り終え、進路をいったん北に向ける。

向かったのは旧千燈寺跡。現在は県道沿いに寺を構えているが、観光スポットとしては旧寺跡が紹介されている。本堂跡に石造の仁王像が立つ写真パネルが今回利用した周防灘フェリーの桟敷席の壁にあしらわれていたのを見て、ここも寄ってみようかなと思った。

ただ、標識に従って山道に入るがよくわからない。どこかにクルマを停めて歩いて行くようだが、カーナビの地図も少しずつ遠ざかり、気づけば山内を一周していた。ちょっと残念だが、まあ、ここは今回必須ということでもないので、そのまま先に向かう。いずれまた、六郷満山を訪ねることもあるだろう・・。

伊美に出て、国道213号線で半島を時計回りに進む。しばらくして海岸線に出る。

金毘羅岩というのが見える。岩の上に鳥居が見え、昔から海上交通の守護神として信仰されたという。先ほど訪ねた真玉海岸が夕陽のスポットなら、こちら金毘羅岩は初日の出のスポットだという。

道の駅くにさきで休憩。建物の裏に砂浜が広がる。この日は国東の山、そして海と楽しんだが、来る前はたっぷりあったと思った時間もあっという間に過ぎたように思う。

大分空港の前を通り、この日の宿泊先の安岐地区に入る。両子寺からぐるりと回って来た。

この日の宿泊は、「民泊 天空の館」。国道213号線沿いには空港近くのビジネスホテルや2食つきの温泉ホテルなどいろいろあり、今回はクルマなので選択肢は多くあった中で、「民泊」である。

外観を見たところ、どう考えても普通のワンルームマンションである。フロントは・・というと、このうちの1室が事務所を兼ねていて奥の部屋からオーナーらしい方が出てきた。駐車場も建物の前、部屋と同じ番号のところに停めるという。

玄関に入るとトイレ、バス、洗面所が別で、洗濯機もある。キッチンには流し、ミニ冷蔵庫、電子レンジがつく。

そしてリビングにはベッドが2台、真ん中に椅子とテーブル。クローゼットもある。完全にワンルームマンションで、全体の部屋面積で見れば私の今の自室といい勝負だ。こうした1泊利用もあれば、長期滞在も可能なようだ。工事等の出張にはいいかもしれない。1泊素泊まりで3850円とリーズナブルだ。これらが合わさって今回の1泊となった。

事前に地図など見て、近隣には居酒屋等なさそうなのでどこかで一献とは行かないが、幸い近くにはスーパー、コンビニがある。いろいろ仕入れて、部屋でいただくことにしよう。

スーパーにはさまざまな魚が並ぶが、さすがに調理はできないので刺身の盛り合わせを購入。惣菜売り場では大分名物のとり天。他にもつまみを揃え、一人乾杯。ご飯ものはアジの寿司とする。

テレビではちょうど夕方のニュースの時間帯。この国東でも大分のテレビ局だけでなく、福岡、山口のテレビ局の番組を見ることができる(ケーブルテレビのおかげかな?)。この日は東京五輪の開会式の前夜だったのだが、ニュース番組で一斉に伝えていたのが、開会式の演出を担当していた小林賢太郎さんの「解任」というものだった。

東京五輪についてはこれまでのさまざまなドタバタもあり、そもそも開幕するとニュースが五輪一色になるのにウンザリなので、別に五輪を中止しろとは言わないがあまり観るつもりはない・・というのが私の気持ち。その中で、ラーメンズのコントで笑わせてもらった小林さんが五輪の演出とは「あり」だなと思っていた。「ポツネン」で海外公演も行っており、ヨーロッパをはじめとした世界的な笑いを追求しているところで、あちらの方のウケもいいのでは・・と勝手に思っていた。

「解任」の理由は、23年前のラーメンズのコントの中のほんの一言から来たもので、何でまた開会式の前日にそういう話になるかね・・というのが残念だった。わざわざリークした人がいて発覚し、それに対していろんな識者が人種差別を許さないと言っているが、改めて持参したパソコンで問題となったコントを検索し、改めて見たのだが、わざわざそこをほじくり出して悪者にするか・・?というところである。

当該のコントを改めて見て単純に思ったのは、むしろ登場人物が当時の教育番組のキャラクターから来たもので、「これ、NHKからは何も言われなかった?」ということ。まあ、当時は「日本語学校」なども含めて、ちょっと知的な、またブラックな内容なコントもいろいろあったが。

いずれにせよ、今回の一件でこれまでの活動、これ以降の活動が全否定されることのないように・・・ということで、この夜はパソコンにてラーメンズのコントを見て大笑いするのであった・・・。

さて翌朝。ホテルというよりは自宅にいるような感じで目覚める。この日は国東半島を杵築へ回り、別府にある第7番・宝満寺、そして大分の郊外にある第8番・霊山寺まで回り、それ以降は次に回すとして、国道10号線~国道2号線をひた走る。当初は夜になってもいいから広島まで戻ろうと思ったが、山口県内でもう1泊することにした。それについてはまた後ほど。

もちろん朝食はないので、改めてコンビニまで買い出しに行く。その前に、海岸が近いということで散歩を兼ねて行ってみる。すでに朝日は高いところにあり、穏やかな波の音がする。海は周防灘から伊予灘に入っており、はるか遠くの陸地は四国、佐田岬半島である。この札所めぐりも少しずつ南に下って行く。

部屋で朝食を取った後、カギは事務所のポストに入れて出発。まずは別府に向かう前に、城下町である杵築に立ち寄ることに・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~第6番「両子寺」(六郷満山の総持院)

2021年08月06日 | 九州西国霊場

国東半島をぐるりと回るドライブも、豊後高田市から国東市に入る。向かうのは両子山の中腹にある両子寺(ふたごじ)である。

両子寺は六郷満山の名刹の一つで、国東半島の観光スポットとしても知られているが、ここに来るにはクルマによるしかない。両子寺のホームページによれば、令和2年、国東市安岐町からのバス路線が廃止になったとある。他の交通手段として、六郷満山のいくつかのスポットを回る大分交通の定期観光バスも設定されているが、コロナ禍の影響で現在運休となっている。

坂道を上る中で駐車場もいくつかあるが、とりあえず一番上、本堂に近いところに停める。そこからいったん石段をくぐり、山門を抜けて無明橋まで下がる。ここに石像の仁王像が立つ。両子寺を紹介する観光案内のパンフレットやサイトなどはこの辺りの景色を使うことが多い。石段と木立をバックにした仁王像も、山の名刹を感じさせる。

阿形、吽形それぞれの足元に、「ご参拝の方で足腰の悪い方 この仁王像の足をさすって強い足にあやかって下さい」という札が立てられている。別に足腰が悪いわけではないが、仁王さんにこの先の道中の安全を願って足をさすっておく。

暑い中だが、青紅葉も鮮やかに見える。

拝観料を納め、石段をもう少し上がると正面に建つのは客殿。最初うっかりここが本堂かと思い、土産物などが並ぶ奥に祀られていた小さな観音像に向けてお勤めをしていた。どうもおかしいなと思いながら、終わりに近づいたところでようやく気づいた。別に慌てていたわけでもないが、不勉強なことである。

改めて、斜め向かいの建物に向かう。こちらは寺としての本堂である護摩堂。山岳修行の道場として、不動明王を本尊とする。九州西国霊場とは違うが、本堂ということで、ここで改めてお勤めとする。建物は明治の初期に焼失し、およそ20年後に再建とあるが、護摩祈祷の長年の積み重ねで天井、柱も黒くなっている。

両子寺もこれまで訪ねた六郷満山の寺と同様に、奈良時代に仁聞菩薩によって開かれたと伝えられる。鎌倉時代あたりから六郷満山の中心的な寺院となり、この前に訪ねた長安寺と同じく、戦国時代には大友氏の重臣・吉弘氏の勢力下にあった。江戸時代には杵築藩の保護を受け、六郷満山の総持院としての役割を果たすように。現在は宇佐神宮から始まる六郷満山霊場めぐりの結願の寺でもある。

ただ、九州西国霊場めぐりとしては護摩堂で終わりとはいかない。参詣案内順に従って境内の奥に進む。

続いてやってきたのは大講堂。こちらは明治時代の廃仏毀釈で焼失し、平成になって再建されたとある。先ほどの護摩堂も焼失したとあるがこちらは廃仏毀釈によるものではないという。国東半島は長く神仏習合の歴史が残り、今も息づいているというイメージだったが、やはり当時はちょっとした騒ぎはあったのだろう。大講堂には阿弥陀如来、釈迦三尊、天台大師、伝教大師像が祀られている。

少し進むとまた木々が深くなり、鎌倉時代のものとされる国東塔と石の鳥居が並ぶ一角に来る。鳥居には「両所大権現」の額が掲げられ、石段の手前には狛犬が並ぶ。この足元にも、先ほどの仁王像と同じく「強い足にあやかって下さい」との札が立っている。

石段の途中にも磨崖仏や国東塔が置かれている。この奥には細い道が続いていて、百体観音や針の耳といった奇岩を見ることができるようだ。一種の修行の道の名残だろう。両子山の頂上まで続くというが、さすがにそこまでは行けない。

そして到着したのが奥の院。現在修復工事中のようだが、建物は江戸時代、杵築藩主の寄進によるものだという。ここに「九州西国第六番」の札が掲げられている。

祀られているのは本尊の十一面千手観音像で、これが九州西国の本尊である。さらに、両子(両所)大権現、宇佐八幡神、そして仁聞菩薩が祀られている。両子(両所)大権現は双子の男女の童子像ということだが、古くから子授けの信仰を集めている。また、この一対の像は宇佐神宮由来で、それぞれ神と仏を表しているという考えもあり、また宇佐八幡神と仁聞菩薩が並んでいるのも神仏習合の表れともいえる。

九州西国霊場めぐりの中で神仏習合という言葉が何度も登場しているが、ここ両子寺でその最たるところに来たと言えるだろう。改めてここでお勤めとする。

奥の院のお堂の裏に岩屋がある。建物と岩壁の隙間のスペースが洞窟のようになっている。こちらにも千手観音をはじめとした石仏が並ぶ。元々はこうした石仏を拝んでいたのかな。

ここで折り返しとして、先ほど本堂と勘違いした客殿に向かい、九州西国霊場の朱印をいただく。両子寺はさまざまな札所になっているが、そこで見つけたのが「九州三十六不動尊霊場」・・・(またいらん誘惑が)。両子寺はその第1番である。こちらも九州各県をめぐるが、第1番から第7番までが国東半島の六郷満山の寺院で、また南九州はポツポツとだけあって、佐賀、福岡に戻ると寺院が増える構成となっている。

天念寺、両子寺と回り、今回の九州西国霊場めぐり初日の2ヶ所は完了。この日の宿泊は国東市の安岐町で、両子寺から直接山を下りれば30分ほどで着くが、せっかくなのでもう少し国東の海岸も回ってみたい。というわけで、両子寺から北の方向にある伊美方面に向かうことに・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~長安寺で納経代行

2021年08月05日 | 九州西国霊場

九州西国霊場の第5番・天念寺を訪ねた。併設して「鬼会の里」という資料館プラス食堂はあるのだが、寺としては無住ということで納経は近くの長安寺に委託しているという。次の第6番・両子寺に向かう前に長安寺を訪ねる。カーナビに目的地入力してもそれほど離れていない。

その中で、標識はカーナビと逆の方向を示す。これは道路上の標識のほうが近いのかなと、あえてそちらの方向にハンドルを向ける。しばらく走るとまた標識があるが、この道はナビに載っていない。別に新しく開かれた道というわけでもなさそうで、私のクルマのナビが対応していないだけなのかな。もっとも、早く着けそうなのはいいが坂道が急で、軽自動車のエンジンが唸りをあげる。

天念寺から10分足らずで長安寺に着いた。ここも公共交通機関で訪ねるには厳しいところ。そもそも、国東半島の海岸部ならともかく、人口の少ない内陸部、山岳部を走るバス路線じたいが存在しない。六郷満山を訪ねるならこうしてクルマか、それこそ峯入り行のように歩いて回るかである・・。

長安寺は奈良時代に他の六郷満山の寺社と同じく仁聞菩薩により開かれたと伝えられる。鎌倉時代には六郷満山の100以上の寺院を従えたという格式のあるところ。

そして、長安寺がある屋山の頂上には戦国時代に屋山城という山城が築かれ、豊後の大友氏の重臣である吉弘氏の居城だったという。ちょうど豊後の北の守りに当たっていたのかな。現在も、長安寺の駐車場から屋山の頂上までの登山道があり、城跡も残されているそうだ。

寺に向かう。仁王門があるわけでもなく、そもそも駐車場からの道は後に整備されたもののようだ。境内に差しかかるとこの下に続く石段に出る。その下にはかつての塔頭寺院の名残なのか、何軒かの集落がある。昔はこちらが表参道だったのだろう。

本堂に向かうと、縁側に納経のサンプルが置かれている。無住の天念寺の九州西国第5番の朱印も扱っているが、長安寺じたいも由緒あるところで自身の朱印もいくつかある。その中で目に入ったのが「九州四十九薬師霊場」・・・。うわ、またいらんもん見てもうたわ。こちらは福岡を起点に九州を時計回りに進み、九州西国霊場には含まれない宮崎、鹿児島両県があり、九州一周ができるというもの。またいつか、しれっとした顔で「第1回九州四十九薬師めぐり」・・・などやっているのかな。とりあえず今は考えないようにしよう。

私の姿を見てか、奥の本坊から住職の奥様とおぼしき方がやってきた。「ご朱印?」ということで、九州西国の天念寺のものをいただく。もっとも、外に出てきたのは「ちょうど生協の人が来る頃なので」ということのようだ。

本堂を辞して、先ほど集落に向かって下る石段の反対側に、山に向かって上る石段を歩く。まさか屋山城まで行くわけではないが、この先に何かありそうだ。道の両側には句碑、歌碑が並ぶ。

そのまま向かうと神社の拝殿に出た。今は(天念寺と同じく)身濯神社というようだが、かつては六所権現社として、不動明王の化身として木造の太郎天が祀られていたそうだ。その拝殿の脇には国東塔が残されている。ここも神仏習合の歴史を伝えるスポットだ。

駐車場から下り坂に入ると、生協のトラックとすれ違う。先ほどの「生協の人」とはこの移動販売車のことだろう。確かに、この辺りをクルマで走る中でスーパー、コンビニはおろか個人の食料品店というのもほとんど見ていない。クルマなら豊後高田や国東の町中に出れば買い物に不自由はしないのだろうが・・・。

ここからいよいよ、六郷満山の中心といえる両子寺に向かう。少しずつ坂道も険しくなり、並石ダム湖の横を過ぎる。この道、1月に国東半島を回った時にも通ったのだが、その時は路肩に雪も積もっていた。その時は時間の関係で杵築市方面に進路を変えたが、今回はそのまま両子寺に向かう・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~第5番「天念寺」(修正鬼会の寺)

2021年08月04日 | 九州西国霊場

国東半島をぐるりと回り、ようやくこの旅の本題である九州西国霊場の札所である第5番・天念寺に着く。

駐車場の横にお堂というよりは平屋の家屋がある。ここが天念寺の本堂で、「拝観無料 自由に御拝観下さい」とある。ただ寺としては無住だということで、天念寺の納経はこの先の長安寺で受け付けるという。

天念寺も他の六郷満山の寺と同様に、仁聞菩薩が開いたとされる。寺の本尊は阿弥陀如来で、かつては国宝にも指定されていた。しかし、昭和になって水害で本堂が流され、その再建資金を得るために埼玉県の寺院に売却されたという。後に大分県などによって買い戻され、現在は隣接する「鬼会の里」に祀られているそうだ。後で訪ねることにしよう。

ともかく九州西国霊場としてのお参りはしたが、天念寺の見どころはむしろ現在の本堂以外にあると言っていいだろう。すぐ横にある身濯神社はかつての六所権現社で、ここにも神仏習合の歴史が残されている。

その横に講堂がある。床は板張りだが土足でもOKということで、パッと見たところ荒れたお堂に感じるのだが、むしろこの建物が天念寺のシンボルである。九州西国霊場の本尊である聖観音像も実はこちらに祀られている。

天念寺では毎年旧正月に「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」が行われる。前の年の悪を正し、新たな年の五穀豊穣、無病息災を願う火祭りの行事で、僧侶が扮した赤鬼や青鬼が松明を持って講堂内を舞い、かつ暴れ回る。講堂の壁には寄付のお札が貼られていて、また鬼会で使う松明も置かれている。内部が荒れて見えるのも、すごみのある行事の積み重ねによるものだろう。

松明に触れるとご利益があるとされることもあり、例年、修正鬼会は一般の人も参加できるとあって多くの見物客、観光客も集まるそうだが、2021年についてはコロナの影響で関係者のみで行われたという。

寺の前に小川が流れ、その中に岩に刻まれた不動明王像がある。川中不動と呼ばれ、幾度となく氾濫する川による水害防止の願いのために造られたものだという。

そして振り返ると、天念寺の背後は険しい岩峰がそびえる。この一帯は天念寺耶馬と呼ばれている。この峰を伝う道は六郷満山の修行場で、滑落の危険もあるため関係者以外は立入禁止となっている。

その峯をつなぐところに橋が見える。無明橋といい、これも修行者だけが渡ることのできる石橋である。橋そのものはそれほど長くなさそうだが、ああいうところに架けるのは勇気がいることだろう。それも修行の一環だったのかな。

天念寺に隣接して、「鬼会の里」という建物がある。食堂の他に歴史資料館を兼ねているそうで、食堂の人に申し出て入館料を支払い、のぞいてみる。

館内は六郷満山の歴史とともに修正鬼会についても触れられている。その修正鬼会の様子を撮影した映像が見られるということだが、私が訪ねた時は他に客がいなかったためか、あるいはそもそも機器の不調だったのか、映像室に入っても何も上映されなかった。まあ、そこは後ほどYouTubeで見たが、鬼会の最中、講堂の中で松明の炎が焚かれ、見物客を追い回す場面もある。そりゃ、中が煤けて使い込まれたように見えるだろう。

資料館の奥には、かつてよその寺に売却されていた本尊の阿弥陀如来像が祀られている。その他、先ほど触れた無明橋の実物大の模型もある。こうした屋内に置かれている限り何とも思わないが、それが断崖絶壁の境目にあるのだから・・。

また、無料のVR体験で、無明橋の上に立つことができる。私が選んだのは峯入り体験のパターンで、橋のたもとで読経する声が聞こえる。そして振り返るとすぐ背後に僧侶がいて、画像はそのまま無明橋を渡るシーンとなる。VRとはいえ結構スリルを感じたほどだ。峯入りはこの先も続いていくが、道なき道も多いのだろう。

これで天念寺を終え、次は第6番の両子寺に向かうのだが、その前に、無住の寺のため納経を委託された長安寺に向かう必要がある。カーナビで検索してもそれほど離れているわけではなさそうだ。おまけに、実施の標識にしたがって走るとカーナビとは逆方向に向かい、そしてカーナビに載っていない道を走り始めた。私のクルマのカーナビも結構古いし、これから走る道も脇道と見なして案内しないのかもしれない。

ゴールは少しずつ近づくが、軽自動車のために上り坂でエンジンもうなりだす。まあそれでも多少は時間短縮になったかなと、長安寺の標識を見てほっとするのであった・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~六郷満山の名刹と中世からの田んぼを訪ねる

2021年08月03日 | 九州西国霊場

豊後高田の中心部を通り、これから国東半島の中央部に向かう。この辺りは今年1月にもレンタカーで訪ねていて、どこか見覚えのある道が続く。

その時は宇佐神宮から熊野磨崖仏、富貴寺と回ったところで時間切れとなり、国東市から杵築市へと回った。この時、時間的に熊野磨崖仏との選択になった結果素通りしたのが真木大堂である。もっとも、今思えば回るだけの時間はあったのかな。今回は熊野磨崖仏はパスして、真木大堂に向かう。まあ、熊野磨崖仏の実物大レプリカは、前回の九州西国めぐりで大分県立歴史博物館で見たことだし・・。

国東半島に広がる「六郷満山」は、今から1300年あまり前の奈良時代に仁聞菩薩によって開かれ、昔からの山岳信仰と神仏習合が交じりあった修行の場の総称である。今では宇佐神宮や、この後訪ねる両子寺など、31の寺社をめぐる「六郷満山霊場」というのもあるし、天台宗の僧侶たちが修行として歩く「峯入り」の行も受け継がれている。

国東半島でどこに行くか迷ったのはこの六郷満山の札所の存在があり、どれを抽出しようかということである。まあ、それほど気になるならまたいずれ私の新たな札所めぐりとして1番から順番に回ればいいのだが・・。

真木大堂の駐車場に着く。駐車場の奥の田んぼで暑い中作業をしている人がいるな・・と見えたが、近づくと立っていたのはかかし。この辺り、里山の中でかかしが立っている光景を目にすることが増えるが、町おこしの一つとしてかかしをPRしており、豊後高田市では毎年秋にコンクールも行っているそうだ。

今は真木大堂として観光スポットにもなっているが、元々は馬城山伝乗寺(まきさんでんじょうじ)という、六郷満山の中でも最大規模の寺院だったという。後に火災で焼失したために縮小されたが、平安時代後期からの貴重な仏像が残されている。それが安置される収蔵庫が正面にあり、真木大堂の本堂といっていい。

収蔵庫の横から入り、正面は二重のカーテン扉になっている。そして照明を落とされたガラス張りの収蔵スペースに出る。それだけ厳重に管理されている。

ガラス張りの向こう側には、いずれも国の重要文化財に指定される9体の仏像が祀られている。中心にいるのが本尊の阿弥陀如来。丈六の坐像で立派な体格をしているように見える。その阿弥陀如来が祀られている四方を護るように立っているのが四天王像である。

こちらから見て阿弥陀如来の左側には大威徳明王が祀られる。大威徳明王は本地は阿弥陀如来とされ、忿怒の相をしている。神の使いとされる水牛にまたがっているが、水牛の造りがやたらリアルに見えるし、そのためか大威徳明王像も躍動感があるようだ。一方右側には不動明王と二童子が祀られるが、不動明王も2メートルを超す大きなものである。その当時から高い彫像の技術がこの地にあったことがうかがえる。

平安時代の六郷満山が栄えていた様子を今に伝える貴重な文化財で、これだけよい状態で残されてきたのも地元の人たちの支えによるものだろう。最近、神仏習合の裏返しで明治の神仏分離、廃仏毀釈に関する新書も読んだのだが、国東ではそこまでの過激な行いというのはなかったのだろうか。

収蔵庫の横にお堂がある。こちらが旧本堂で、江戸時代のものとされる。当時は先ほどの阿弥陀如来などの仏像もこちらに祀られていたという。堂内に入ることができるのでおじゃまする。

正面には一対の仁王像が立つ。屋内で仁王像に出会うのもなかなかない。往時は先ほどの阿弥陀如来や大威徳明王などとともに一切合財このお堂に詰め込まれたのかなと思う。この仁王像も収蔵庫に行きたかったのかもしれないが、いやいや、意地でもこのお堂を護るということで居残ったのか。そこのところの本音を訊いてみたい。

その仁王像の後ろには菊の御紋が見える。鎌倉時代の元寇の折、各地の寺社で異国降伏の祈祷が行われたが、幕府から六郷満山にも命令が下り、伝乗寺も大規模な祈祷を行ったという。そのおかげ?で元を退けた恩賞として、朝廷から幕府を通して菊の御紋を授けられたと伝えられる。そういう歴史もあるのか。

また堂内の壁や柱には、六郷満山の峯入りを終えたことを示すお札が掲げられる。

境内の奥はミニ公園として整備されていて、これも石の国大分というべきか、さまざまな石塔、石仏が並べられている。この地独特の国東塔や、諸国を回った六十六部の供養塔などもある。元々近隣の寺院や道端にあったものだが、なかなか維持も難しいということで地元の人たちの協力もあってここに集められたという。仏像の収蔵庫といい、国東の歴史を後に伝えていこうという取り組みである。

これで真木大堂を後にして、しばらくクルマを山中に進める。この一帯の田染荘(たしぶのしょう)を見ることにする。

田染荘は古代、墾田永年私財法の頃から開かれた水田地帯で、平安時代に宇佐神宮の荘園となった。その後いろいろ変遷はあるものの、ベースとなる田んぼや集落の位置は当時からのものがそのまま受け継がれている。大規模な圃場整備やコンクリートの用水路を設けることもなかった。その結果、今ではユネスコの「世界農業遺産」にも認定されている。

1200年もの間、形をほぼ変えずに残る水田というのも珍しいものだ。真木大堂からクルマを走らせるとさりげなく案内が掲げられる。展望スペースもあるので上がってみる。パッと見たところでは昔からの里山風景にしか思えないのだが、わかる人にはわかるのだろう。現在、各地にはまだまだ大規模な水田が残るが、これらのほとんどはさまざまな整備や設備改良が施されているということか。

平安時代からの寺社が残る国東らしい景色というのは単純な感想だが、そうした歴史あるところなら、ここでできた米も特別な味がしそうだ。どこかで売ってやしないかな。

さてここから半島の中央部に向かう。到着したのは富貴寺。ここは1月に続けての参詣である。こちらも仁聞菩薩が開いた六郷満山の寺社の一つで、霊場の札所にもなっている。

こちらのシンボルは国宝の大堂。平安時代の建立とされ、天台宗の寺院にあって浄土教の色彩が強い建物である。こちらは特別に開扉されていて、大堂に祀られている阿弥陀如来を拝むことができる。当時から数百年もの年月を経ているが、当時の壁画もかすかに残っており、参詣者は堂内にあるペンライトでその跡をたどることができる。いったん大堂の裏側に回り、扉をくぐってさらに中を回り込む。今も変わらぬ姿で仏像、そして壁画が出迎える。

もっとも、富貴寺大堂も大分県立歴史博物館でレプリカ復元されている。こちらでは中の壁画も再現されており、当時の人がまぶしく、ありがたがって手を合わせた様子がうかがえる。

現物と復元のどちらを先に見るべきかは意見が分かれるだろうが、現物~復元~現物と時間を置いて見ると、理解がより一層深まるように思う。この富貴寺もそれだけ長い年月に耐えてきたということにも改めてうなるところだ。

以前来た時には気づかなかったのだが、大堂の奥に石段があり、奥の院の薬師岩屋に続くとある。石段を見上げると終点がすぐそこのように見えたのでそのまま上がってみる。確かに岩をくり抜いた祠に薬師如来が祀られている。寺の由来にどのくらい関連するのかはわからないが、元々は山岳信仰の一つでこうした岩屋を拝んでいて、後に浄土信仰が広まって大堂(阿弥陀堂)ができたのかなと思わせる。

また、富貴寺にも神仏習合の名残がある。大堂の横に鳥居があり、大権現の額がかかっている。かつての六所権現で、神仏分離以降は白山神社となっている。この白山神社は富貴寺の住職が代々一緒に世話しているそうで、神社の祭礼でも僧侶の袈裟を着けて、般若心経などをあげるという。これも前回気づかなかった。

やはり一度訪ねただけでは気づかないところもあり(まあ、そんなにガチガチにそのスポットについて事前に調べつくすわけでもなく)、新たな視点を得たうえで再訪すると見えるものもあるということか。

山門から後にすると、いつの間にか猫が2匹寝転がっていた。暑さを避けて日陰にやってきたのかな。

まずは六郷満山の中でもよく知られるスポットを訪ね、ここから九州西国霊場めぐりとする。まず向かうのは第5番の天念寺である・・・。

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第3回九州西国霊場めぐり~周防灘と国東の海岸をめぐる

2021年08月02日 | 九州西国霊場

7月22日朝、徳山を出航した竹田津行きのフェリー。甲板にも結構な数の乗客がいて、夏休みらしい光景である。まずは徳山港に面したコンテナヤードやコンビナート群を見ながら出航していく。

風を受けながらそうした景色を見たり、また空調の効いた船内で過ごしたり、とりあえず竹田津までの2時間を過ごす。徒歩での乗船ならば海を眺めつつビールでも飲むところだが、クルマなのでもちろんそんなことはしない。

桟敷の上に、船内にあった国東半島のパンフレットを広げる。これから渡る国東半島をどう回ろうかの思案である。もちろん、今回の九州西国霊場めぐりの目的地である第5番・天念寺と第6番・両子寺は訪ねるが、その前にどう回るかである。宿泊は半島の南東部にある国東市、大分空港の近く。寺は山の中にあるが、せっかくなので海べりも回ってみたい。フェリーが着くのが9時半頃で、ホテルにはやはり日のあるうちには入るとしても結構時間はある。

そうするうちに沖合に出て、本州、九州いずれもが薄らとしか見えなくなるエリアにさしかかる。こういう形で九州に渡るのもいいものである。国東半島に渡る場合、鉄道でぐるりと小倉から日豊線を経由するよりも早く着くことができる。

またしばらく船内でぼんやりするうち、姫島が近づいてきた、いよいよ大分県である。その奥に広がるのがこれから回る国東半島である。

そろそろ竹田津に着くとの案内があり、車両甲板に向かう。甲板にはびっしりとクルマ、トラックが埋まっていてほぼ満員御礼である。車内に入り着岸を待つ。カーナビ画面はまだ徳山港のままだ。

車両の積載に時間を要したため出航が10分あまり遅れたが、その遅れのままに到着した。係員の誘導で次々にクルマが吐き出され、半島内に散って行く。私はいったん岸壁にクルマを停め、フェリーの写真を撮るとともにカーナビをセットする。画面が一瞬にして竹田津港に変わる。

フェリーの中でコースをいろいろ考えていたが、ぐるり一周に近い形を取ることにする。竹田津港から国道213号線への交差点を右折し、西側に向かう。第2回の帰途に宇佐駅からバスに乗ったが、その逆を行くことにする。その時バスの窓から見た海岸をちょっと見ようというものである。「恋叶ロード」という、私のようなおっさんには似つかわしくないスポットであるが・・。

国東市から豊後高田市に入る。この日のコースとしてはまず半島西側の豊後高田市を回り、その後国東市を回る形になる。ちょうど札所も豊後高田、国東とそれぞれ分かれている。

まず向かったのは粟嶋公園。大分の縁結びスポットして知られるところという。早速、映えスポットが並ぶ。縁結び、ハート、そしてくくりつけられた鍵・・まさに「恋人の聖地」やな・・と思いながら通り過ぎる。事実、恋叶ロード全体が「恋人の聖地」に選定されており、各地にあるあのプレートは、今回素通りしたがこのスポットの起点である長崎鼻に掲げられているそうだ。

この公園の奥にあるのが粟嶋社。粟嶋(粟島、淡島も含む)という名前の神社は全国各地にある。その多くが祭神とするのは淡島明神(少彦名神)で、ここの粟嶋社も江戸時代前期に創建されたとある。元は医薬の神として信仰されていたが、安産、子授け、婦人病にご利益があったことから女性の願いを叶える神社として信仰を集めた。江戸時代に淡島願人と呼ばれる人たちが淡島明神のご利益を説いたことから各地に広まったとのことで、この粟嶋社もそうした中で建てられたのだろう。それが時代を経て、縁結びのスポットとなった。

参道を行くと拝殿のようなところに出る。ここが粟嶋社かなと思うが、さらに鳥居が続いていて、海べりに出た。こちらの粟嶋社は岩窟の中に祀られているのが特徴で、その前に拝殿が建てられている。

賽銭箱の横に「願い石」というのがある。海中の「叶え岩」に投げて、そのくぼみに入ると願いが叶うという。この「叶え岩」は干潮時にのみ現れるとあるが、ちょうどこの時は干潮だったようで、ハート型のくぼみを持つハート型の岩が姿を現している。事前の調べなしでやって来てこの岩が見えるだけでもラッキーだと思うが、それにしてもこの岩、自然にできたものなのかな・・?

それはさておき、私もお賽銭を納めて石を2つ手にする。さて1投目は・・・惜しくも岩の外枠に当たる。そして2投目は・・・力が足りなかったか手前で落ちて海中へ。まあ、そんなもんだろう。ともかくこの先の無事を祈ることにする。

恋叶ロードのドライブを続ける。次に立ち寄ったのが真玉海岸。国東半島の西側の付け根の部分にあり、大分県では唯一水平線に沈む夕日を眺めることができるスポットだという。その夕日も人気で、干潟の縞模様と合わせて織りなす独特の光と色のコントラストは「日本一の夕陽」とも称されている。ここも「恋人の聖地」に含まれており、そりゃあ、ムードあふれることだろうよ。

レストハウスの前には干潮、満潮、夕日、日没の時間が掲示されている。訪ねた時はそのどれでもない時間だったが、ここはぜひこれらの時間をチェックしたうえで訪ねたいところである。

もっとも、昼間の時間でも磯遊びが楽しめるところで、干潟の向こうには人の姿もちらほら見える。珍しいマテ貝掘りの体験もできるそうだ。

今回国東半島を訪ねるにあたり、頭の中は「六郷満山」のことで満山・・もとい満杯だったのだが、こうした海岸景色も楽しむことができた。

この後は豊後高田の中心部に入る。「昭和の町」関連スポットの案内板もあるが結局素通りする。この先、九州西国霊場も含む六郷満山を回る前に、こうした海岸の景色を楽しんで思いのほか時間が過ぎていた。今回も昼食抜きで回ることになるのかなと思いつつ、豊後高田市の南部に回り込んでこれから国東の仏めぐりである・・・。

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