フランスの名匠+大女優映画祭②
「緑色の部屋」
1920年代のフランス東部。雑誌で死亡欄記事を書いているジュリアンは、墓地にある廃れた礼拝堂を買い取り、そこで死んだ妻や親しかった人たちの霊を祭り、死者との交流に心慰められていたが…
今は亡きフランスの名匠フランソワ・トリュフォー監督の作品は、フランス人らしい恋愛至上主義的な内容のものがほとんどなのですが、恋愛ではなく“死”をテーマにしたこの「緑色の部屋」は、数あるトリュフォー監督作品の中でもかなり異色で、そして深淵で美しく忘れがたい映画でもあります。
スピルバーグ監督に熱望されて「未知との遭遇」に科学者役で出演したり、自身の作品でもチョコチョコ顔を出してたトリュフォー監督。「緑色の部屋」では、堂々の主演までやってのけてます。敬愛していたヒッチコック監督の影響なのか、それとも単に出たがりさんだったのか。
トリュフォー監督の作品を観るたびに、監督って病的なまでにロマンチストで根暗だったんだなあ、と思わずにはいられません。トリュフォー監督自身が演じた主人公ジュリアンって、一見まともだけど、やってることはかなりヤバい性格破綻者だし。死んだ妻が忘れられず、その死を否定して妻の写真や遺品を後生大事にしている様子は、完全に病んだ人。亡妻のみならず、親しかった亡き人々の死を祭る祭壇まで作って、彼らを悼むことに憑かれ始め、死者のことを忘れて未来を生きようとする人たちのことを憎み、とことん厭世的になっていくジュリアンの、静に鬼気迫る姿に戦慄。ジュリアンの言動は、天童荒太の直木賞受賞作「悼む人」を思い出させました。亡き人々を追慕し、忘れずにいることは大切だと思いますが、生きている自分や周囲の人たちを、そして現世の幸福や希望を否定してまで死者に執着するのは、本末転倒というか狂気の沙汰。誰にも迷惑をかけてないからいいじゃないか、とも思いますが、ジュリアンの死者崇拝は宗教の狂信者とカブります。
ジュリアンのように愛されるのって、果たして幸せなのだろうか。はっきり言って、気持ち悪い。あそこまで想われたら、成仏できないよ。私がジュリアンの奥さんだったら、草葉の陰で不気味がると思います。ラスト近くになると、死者を悼むというより死に憧憬しちゃってたし。死者があの世でどう思うかなんてお構いなし、自分の妄執で破滅してしまった男の悲劇は、あまりにも独りよがり、なんだけど…死という観念が、とても清らかに静謐に美しく描かれているので、生きてるのが厭な人が観たら危険な映画かもしれません。
この映画で特筆すべきなのは、トリュフォー監督の「アメリカの夜」「恋愛日記」で好演し、今作ではヒロインに抜擢されたナタリー・バイの魅力です。当時30歳ぐらいの彼女、すごい美女ってわけではないんだけど、大人の女のしっとりとした優しさ清楚さが素敵。劇中、彼女にハっとなるシーンがあります。特にラストシーン。ロウソクの灯火に照らされ静かに涙を流す彼女は、まさに聖なる美しさ。ああいう奇跡的な一瞬を撮ってもらうのは、女優冥利に尽きるのではないでしょうか。トリュフォー監督の作品で好演を続けたナタリーおばさまが、後年スピルバーグ監督の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に出演したのには、何か感慨深いものがありました。彼女の起用は、スピルバーグ監督のトリュフォー監督へのオマージュなのでしょうか。
この作品でのナタリー・バイをはじめ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャクリーン・ビセット、イザベル・アジャーニ、ファニー・アルダンなど、トリュフォー監督は女優を美しく魅惑的に撮るマエストロだったんだなあ、早世が惜しい、もし存命ならどんな女優を使ってどんな映画を作ってただろうかと、あらためて愛惜せずにはいられません。
↑今年のフランス映画祭の団長であるナタリーおばさまの新作は、メルヴィル・プポーが美しきオネエマン役を熱演している「わたしはロランス」です。早く観たい!
「緑色の部屋」
1920年代のフランス東部。雑誌で死亡欄記事を書いているジュリアンは、墓地にある廃れた礼拝堂を買い取り、そこで死んだ妻や親しかった人たちの霊を祭り、死者との交流に心慰められていたが…
今は亡きフランスの名匠フランソワ・トリュフォー監督の作品は、フランス人らしい恋愛至上主義的な内容のものがほとんどなのですが、恋愛ではなく“死”をテーマにしたこの「緑色の部屋」は、数あるトリュフォー監督作品の中でもかなり異色で、そして深淵で美しく忘れがたい映画でもあります。
スピルバーグ監督に熱望されて「未知との遭遇」に科学者役で出演したり、自身の作品でもチョコチョコ顔を出してたトリュフォー監督。「緑色の部屋」では、堂々の主演までやってのけてます。敬愛していたヒッチコック監督の影響なのか、それとも単に出たがりさんだったのか。
トリュフォー監督の作品を観るたびに、監督って病的なまでにロマンチストで根暗だったんだなあ、と思わずにはいられません。トリュフォー監督自身が演じた主人公ジュリアンって、一見まともだけど、やってることはかなりヤバい性格破綻者だし。死んだ妻が忘れられず、その死を否定して妻の写真や遺品を後生大事にしている様子は、完全に病んだ人。亡妻のみならず、親しかった亡き人々の死を祭る祭壇まで作って、彼らを悼むことに憑かれ始め、死者のことを忘れて未来を生きようとする人たちのことを憎み、とことん厭世的になっていくジュリアンの、静に鬼気迫る姿に戦慄。ジュリアンの言動は、天童荒太の直木賞受賞作「悼む人」を思い出させました。亡き人々を追慕し、忘れずにいることは大切だと思いますが、生きている自分や周囲の人たちを、そして現世の幸福や希望を否定してまで死者に執着するのは、本末転倒というか狂気の沙汰。誰にも迷惑をかけてないからいいじゃないか、とも思いますが、ジュリアンの死者崇拝は宗教の狂信者とカブります。
ジュリアンのように愛されるのって、果たして幸せなのだろうか。はっきり言って、気持ち悪い。あそこまで想われたら、成仏できないよ。私がジュリアンの奥さんだったら、草葉の陰で不気味がると思います。ラスト近くになると、死者を悼むというより死に憧憬しちゃってたし。死者があの世でどう思うかなんてお構いなし、自分の妄執で破滅してしまった男の悲劇は、あまりにも独りよがり、なんだけど…死という観念が、とても清らかに静謐に美しく描かれているので、生きてるのが厭な人が観たら危険な映画かもしれません。
この映画で特筆すべきなのは、トリュフォー監督の「アメリカの夜」「恋愛日記」で好演し、今作ではヒロインに抜擢されたナタリー・バイの魅力です。当時30歳ぐらいの彼女、すごい美女ってわけではないんだけど、大人の女のしっとりとした優しさ清楚さが素敵。劇中、彼女にハっとなるシーンがあります。特にラストシーン。ロウソクの灯火に照らされ静かに涙を流す彼女は、まさに聖なる美しさ。ああいう奇跡的な一瞬を撮ってもらうのは、女優冥利に尽きるのではないでしょうか。トリュフォー監督の作品で好演を続けたナタリーおばさまが、後年スピルバーグ監督の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に出演したのには、何か感慨深いものがありました。彼女の起用は、スピルバーグ監督のトリュフォー監督へのオマージュなのでしょうか。
この作品でのナタリー・バイをはじめ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャクリーン・ビセット、イザベル・アジャーニ、ファニー・アルダンなど、トリュフォー監督は女優を美しく魅惑的に撮るマエストロだったんだなあ、早世が惜しい、もし存命ならどんな女優を使ってどんな映画を作ってただろうかと、あらためて愛惜せずにはいられません。
↑今年のフランス映画祭の団長であるナタリーおばさまの新作は、メルヴィル・プポーが美しきオネエマン役を熱演している「わたしはロランス」です。早く観たい!