朝日新聞で紹介されていた、閻連科さんの’04年作品『愉楽』を読みました。
山奥の誰にも知られていない受活村には、おし、つんぼ、めくら、下半身不随など、障害者だけが住んでいた。彼らは皆絶技を持っていた。幼い頃、紅軍とともにいて、1936年前後に延安にいたこともある茅枝婆(マオジーポー)は、10代の時に隊に捨てられた後、村の石屋に拾われ、その石屋と結婚し、村に住むようになったが、解放後、周りの村が共産化され、互助組と合作社に入っているのを知り、受活村にも革命を持ち込むために、村を県の中へ引き入れ、それ以来彼女がこの村のリーダーとなっていた。
しかしその後、1958年には鉄の大増産のため、村にある金属は全て持ち去られ、県が飢饉に襲われた時は、県の命令書を持った外部の者たちによって村の食糧は略奪された。村人は村を入社させた茅枝婆に詰め寄り、茅枝婆はいつか必ず村を退社させると村人に約束した。
ある夏、大雪が降り、小麦が全滅したが、柳(リウ)県長がやって来て空に銃弾を撃ち込むと、雲は晴れ、太陽が出た。県長は1人当たり51元の天災見舞いを渡し、村の定例行事である受活祭で、片足の杖を使った跳躍や、片目の何本もの針への糸通し、つんぼの耳のそばでの爆竹鳴らし、下半身不随の女の刺繍、めくらの音当てなど、村人たちの絶技の見世物を見ると、気前良く演者たちに賞金を与え、受活村で絶技団を結成し、その公演料でレーニンの遺体を買い、山の上にレーニン記念堂を建設して、そこに遺体を収め、観光客を集めて巨額の金を稼ごうと考えた。
茅枝婆の反対にもかかわらず、総員67名の絶技団は一夜のうちにできあがり、茅枝婆の孫で4つ子の小人の娘の2番目、槐花(ホワイホア)は県長の秘書に願い出て、司会として連れていってもらうことになった。4人の中では一番下の孫だけが村に残った。絶技団が出発しようとすると、茅枝婆はとトラックの前に身を投げ出し、絶技団の派遣を認める代わりに受活村が県から退社するという条件を県長に認めさせた。
絶技団の公演は各地で大成功を収め、評判は評判を呼び、入場料は高騰し続け、団員の収入も増え続け、演技もエスカレートしていった。県長は茅枝婆に、退社の約束を守る代わりに、村に残った者で第2の絶技団を結成するように言い、そうして結成された第2の絶技団も大成功を収めた。その頃には、県庁の秘書にかわいがられていた槐花は背が伸び、完全人となり、莫大な収入を得た団員たちは退社に反対するようになっていた。
県長はレーニン記念堂落成式で最後の公演を行なってくれるように茅枝婆に頼んだが、その公演の夜、地区委員会の書記に呼び出され、書記から、レーニンの遺体の購入に向かっていた者たちが当局によって拘束され、県長も更迭されることに決定したことを知らされた。それを知った県長の部下たちは、公演中に、団員たちが隠し持っていた金を全て持って逃げ、県長の運転手とその仲間は、団員たちを記念堂に閉じ込め、団員たちが服に縫い込んであったりした、残った金も残らず出させ、人質に取っていた茅枝婆の4人の孫も輪姦して去って行った。団員たちはここに至って退社することに同意し、村に帰って行った。
それ以来、茅枝婆は死装束を着たまま過ごし、ある日、退社が認められた知らせが村に伝えられると、息絶えた。そして、車にわざと足を轢かせて足を失った柳元県長が村に現れ、余世を村で過ごすことになるのだった。
上記以外にも、受活村・茅枝婆・柳県長の来歴が詳しく述べられるなど、様々なエピソードがてんこ盛りで、訳者あとがきにも書かれていましたが、その想像力と物語性はガルシア=マルケスを想起させるものでした。また、「くどい話」と題された注釈が多く、中には注釈の注釈もあり、注釈が章を成していたり、章立てや注釈が奇数番号しか使われていないなど、特徴的な構成となっていました。二段組で430ページを超える大著でしたが、楽しんで読ませてもらいました。公共図書館にはなかなか置いていないようですが、買って読む価値はあると思います。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
山奥の誰にも知られていない受活村には、おし、つんぼ、めくら、下半身不随など、障害者だけが住んでいた。彼らは皆絶技を持っていた。幼い頃、紅軍とともにいて、1936年前後に延安にいたこともある茅枝婆(マオジーポー)は、10代の時に隊に捨てられた後、村の石屋に拾われ、その石屋と結婚し、村に住むようになったが、解放後、周りの村が共産化され、互助組と合作社に入っているのを知り、受活村にも革命を持ち込むために、村を県の中へ引き入れ、それ以来彼女がこの村のリーダーとなっていた。
しかしその後、1958年には鉄の大増産のため、村にある金属は全て持ち去られ、県が飢饉に襲われた時は、県の命令書を持った外部の者たちによって村の食糧は略奪された。村人は村を入社させた茅枝婆に詰め寄り、茅枝婆はいつか必ず村を退社させると村人に約束した。
ある夏、大雪が降り、小麦が全滅したが、柳(リウ)県長がやって来て空に銃弾を撃ち込むと、雲は晴れ、太陽が出た。県長は1人当たり51元の天災見舞いを渡し、村の定例行事である受活祭で、片足の杖を使った跳躍や、片目の何本もの針への糸通し、つんぼの耳のそばでの爆竹鳴らし、下半身不随の女の刺繍、めくらの音当てなど、村人たちの絶技の見世物を見ると、気前良く演者たちに賞金を与え、受活村で絶技団を結成し、その公演料でレーニンの遺体を買い、山の上にレーニン記念堂を建設して、そこに遺体を収め、観光客を集めて巨額の金を稼ごうと考えた。
茅枝婆の反対にもかかわらず、総員67名の絶技団は一夜のうちにできあがり、茅枝婆の孫で4つ子の小人の娘の2番目、槐花(ホワイホア)は県長の秘書に願い出て、司会として連れていってもらうことになった。4人の中では一番下の孫だけが村に残った。絶技団が出発しようとすると、茅枝婆はとトラックの前に身を投げ出し、絶技団の派遣を認める代わりに受活村が県から退社するという条件を県長に認めさせた。
絶技団の公演は各地で大成功を収め、評判は評判を呼び、入場料は高騰し続け、団員の収入も増え続け、演技もエスカレートしていった。県長は茅枝婆に、退社の約束を守る代わりに、村に残った者で第2の絶技団を結成するように言い、そうして結成された第2の絶技団も大成功を収めた。その頃には、県庁の秘書にかわいがられていた槐花は背が伸び、完全人となり、莫大な収入を得た団員たちは退社に反対するようになっていた。
県長はレーニン記念堂落成式で最後の公演を行なってくれるように茅枝婆に頼んだが、その公演の夜、地区委員会の書記に呼び出され、書記から、レーニンの遺体の購入に向かっていた者たちが当局によって拘束され、県長も更迭されることに決定したことを知らされた。それを知った県長の部下たちは、公演中に、団員たちが隠し持っていた金を全て持って逃げ、県長の運転手とその仲間は、団員たちを記念堂に閉じ込め、団員たちが服に縫い込んであったりした、残った金も残らず出させ、人質に取っていた茅枝婆の4人の孫も輪姦して去って行った。団員たちはここに至って退社することに同意し、村に帰って行った。
それ以来、茅枝婆は死装束を着たまま過ごし、ある日、退社が認められた知らせが村に伝えられると、息絶えた。そして、車にわざと足を轢かせて足を失った柳元県長が村に現れ、余世を村で過ごすことになるのだった。
上記以外にも、受活村・茅枝婆・柳県長の来歴が詳しく述べられるなど、様々なエピソードがてんこ盛りで、訳者あとがきにも書かれていましたが、その想像力と物語性はガルシア=マルケスを想起させるものでした。また、「くどい話」と題された注釈が多く、中には注釈の注釈もあり、注釈が章を成していたり、章立てや注釈が奇数番号しか使われていないなど、特徴的な構成となっていました。二段組で430ページを超える大著でしたが、楽しんで読ませてもらいました。公共図書館にはなかなか置いていないようですが、買って読む価値はあると思います。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)