大橋絢子 1909年(明治42年)1月12日生まれ
父・孝、 母・スエの次女 夫・仙三
100歳をむかえて、
いろいろ思うこと を聞いてみたのをまとめたものです。
①、まさか100歳まで ・牛乳で育った ・良い物を見てきた ・落ち込まない
「100歳まで生きるとは夢にも思いませんでした。」という 母と長女の美津江
が68歳でなくなっているので、たぶんそのあたりで死ぬと思っていた。
なぜこんなに長く生きられたのかと考えてみると、
1、牛乳で育ったこと。 長女とあまり年があいていないので母乳の出が悪く、牛乳
で育てられた。だから骨太だというのが自慢です。
2、若いときに音楽、踊り、演劇、映画、洋画など、一流のよいものを沢山見たこ
と。
3、困ったことでも落ち込まない、なんとかなると言う気持ちが大切だといいます。
②、まさかここで、多くの方に祝福されて、 職員、親戚、知らない人まで
1、歩けなくなって偶然ケアハウス回生にきたおかげで、子供、孫、ひ孫、職員の
方、同僚の方、長い間あわなかった、兄弟姉妹の子供達、そして、府庁や市役
所、社会福 祉の会長さんなど、こんなに多くの方々に祝福されて100歳を迎
えられて、こんな に嬉しいことはない。きっと自宅にいれば、こんな沢山に祝
ってもらえなかったと思う。
③、考えてみると大橋家では最長老 ・家系図 ・ みんなの目標になる
1、長く続く大橋家の家系図の中には、医者・学者・議員・学習院の教授まで、たい
そうな肩書きの人もいるが、100歳はいない。長く生きてるだけやけれど・・・
2、でも、これからの大橋の人間は、私が目標になる。頑張ればここまでこれると・
④、しかし、本人は、複雑な気持ち、 足が動かない、 暗い、でも、まだぼけていない
1、足が動かない、みんなが思っているほどお目出度いことはない。長く生きすぎた
と本人は思っている。周囲が暗い、目がかすんできているのだ。耳も遠くなってき
ている。でも大きいテレビは見えるし、面と向かった喋ればちょっと大きい声を出
せば普通の会話が出来る。本人は大きい声を出せる。手は動くので、ラジオのス
イッチをきったり、入れたりも出来る。
2、あしが動かない、これが一番辛い、トイレと風呂に一人で行けない。
ここにいると、プロの方が手際よくやってくれるので本当にありがたいと・・と述
べている。風呂じゃない、シャワーだと説明する。周囲を囲んだシャワーなのだが
ちょっと寒いという。廊下などもちょっと寒いという。
3、しかし、まだぼけていないのでラジオばかり聞いている。国から賞状が届いた。
「表彰状」から終いまで読み上げたら、直後に「福田総理はもうやめた人だ」と・・・
「今は、あそーとか言う人だと・・」
⑤、食べることには、戦時中を除き苦労しなかった。
1、自分の一生は、戦争中を除き食べるのは苦労しなかったけれど、お金がない
のには苦労したと言っている。若いときに占い師にそう言われたが、・・・
2、戦争中は、よう生きてきたものだと言う。ものは取られる、金は取られた、と
⑥、お金は、貯まらなかった、殆ど病気をしなかった。食あたりで1日寝たこと
1、特筆すべきことは、病気にならなかったことだ。食あたりで1日寝たのを覚えて
いるが、その他は覚えがない。しかし、94歳くらいの敬老の日に家族みんなで食
事に行った帰り、食堂からさっさと一番に外に出ようとして5センチほどの段を踏
み外し、大腿骨骨折、年寄りおきまりのけが、入院するのもたいそうなこと。3カ
月と言われたが、2カ月と言ってやっと了承、ところが入院した部屋に、スエさん
の出身地島本町大沢のかたや向日市の方などがおられて、不安は解消、3カ月
経って退院するとき、「もう帰るのか」ですって・・・
⑦、子供、孫 ひ孫沢山いて、みんな元気なのが一番嬉しい、
1、子供は3人、(連れ合い3)と少なかったが、みんな病気らしい病気をしたこと
がない、 孫、・2,3,3と8(連れ合い6)人、ひ孫、2,4,5と11人 合計31人
になった。
おかげさんで病気入院中のものは誰もいない。
⑧、悲しかったことは、夫が早く死に 弟が戦争で死んだ、弟・妹が子供のとき死ん
だ
1、S、18・12・6夫死亡、7~8年の結婚生活だった。苦しい時代を3人の子
供を連れて暮らしてきたのだから根性が座っている。
10人兄弟姉妹だったが、戦争で弟1人死亡、1人は帰ってきた。姉妹は4人大
人になった、今、末の妹だけが東京にいる。小学校の時2人の弟・妹を亡くして
る。
後の2人はもっと小さいときに死んでいる。
時々、みんなの夢を見ると言っている。特に父母と姉・夫は夢に出てきてもこっち
へこいとは言わないらしい。
⑨、自分の考えをしっかりもって生きていくこと。 死んだら土になる。
1、しっかり生きていく為には、自分の考えをきちっともつことが大切だと言う。
それから、20歳を超えたら自分の行動には責任を持て、以降口出しはしない
と、自分で考えろと・・この考えで生きてきたし実行してきた。子を信頼している
からあという。
2、死んだら土になるのだから、生きられる間は、生きなければならないと、
息子の満は、母への励ましの言葉として、「まだ子や孫に教えなければならない
ことが残っている。それは、人間の死に方である。いくらお金を出しても自分の
死に方を教えてくれる人はいないのだから、・・・と」それには何も答えず笑って
いる。
⑩、父母について、お父さんは、死ぬまで本を読んでいた。父母はよく口論してい
た、
1、自分の両親については、父は死ぬまで本を読んでいたと言っている。
父は、人前で上手に喋ったと言っている。選挙の応援演説もうまかったと、
母は田舎の人だから屋根の上に登って雨漏りまで修したという。それは父には出
来なかったと・・・父母はよく口論していたと。
もう何も望むことはない、今日できたことが、明日も出来ればそれだけでよ
い。
子供から母へ
百歳まで生きた人間から 学ぶことは多い、しかも、病気らしい病気を せずに、今
日まで来た その心の持ち方を、みんな知りたがっている 最近の言葉でいえば、
ストレス解消法である。
母は、「くよくよするな」と 、長寿の秘訣を ひ孫につたえた。
こんな短い言葉で、一生かかって得たことを伝えられることも 人間の達人ならでは
の名言だ。
あと何年生きられるか知らないが、達人の暮らしは今日も、淡々と続いている。
絢さん ! 皆んなで握手