大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

大橋絢子100歳万歳!

2009-01-15 | 市民のくらしのなかで

 

大橋絢子 1909年(明治42年)1月12日生まれ 

                   父・孝、   母・スエの次女   夫・仙三
 

     100歳をむかえて、

 

いろいろ思うこと を聞いてみたのをまとめたものです

 

①、まさか100歳まで   ・牛乳で育った ・良い物を見てきた ・落ち込まない
 
   「100歳まで生きるとは夢にも思いませんでした。」という 母と長女の美津江

  が68歳でなくなっているので、たぶんそのあたりで死ぬと思っていた。
 
    なぜこんなに長く生きられたのかと考えてみると、

 1、牛乳で育ったこと。 長女とあまり年があいていないので母乳の出が悪く、牛乳

  で育てられた。だから骨太だというのが自慢です。

  2、若いときに音楽、踊り、演劇、映画、洋画など、一流のよいものを沢山見たこ

   と。
 
  3、困ったことでも落ち込まない、なんとかなると言う気持ちが大切だといいます。


②、まさかここで、多くの方に祝福されて、  職員、親戚、知らない人まで

  1、歩けなくなって偶然ケアハウス回生にきたおかげで、子供、孫、ひ孫、職員の

   方、同僚の方、長い間あわなかった、兄弟姉妹の子供達、そして、府庁や市役

   所、社会福  祉の会長さんなど、こんなに多くの方々に祝福されて100歳を迎

   えられて、こんな  に嬉しいことはない。きっと自宅にいれば、こんな沢山に祝

   ってもらえなかったと思う。

③、考えてみると大橋家では最長老  ・家系図   ・ みんなの目標になる
 
 1、長く続く大橋家の家系図の中には、医者・学者・議員・学習院の教授まで、たい

   そうな肩書きの人もいるが、100歳はいない。長く生きてるだけやけれど・・・

 2、でも、これからの大橋の人間は、私が目標になる。頑張ればここまでこれると・

④、しかし、本人は、複雑な気持ち、 足が動かない、 暗い、でも、まだぼけていない
 
 1、足が動かない、みんなが思っているほどお目出度いことはない。長く生きすぎた

  と本人は思っている。周囲が暗い、目がかすんできているのだ。耳も遠くなってき

  ている。でも大きいテレビは見えるし、面と向かった喋ればちょっと大きい声を出

  せば普通の会話が出来る。本人は大きい声を出せる。手は動くので、ラジオのス

  イッチをきったり、入れたりも出来る。

 2、あしが動かない、これが一番辛い、トイレと風呂に一人で行けない。
 
     ここにいると、プロの方が手際よくやってくれるので本当にありがたいと・・と述  

  べている。風呂じゃない、シャワーだと説明する。周囲を囲んだシャワーなのだが

  ちょっと寒いという。廊下などもちょっと寒いという。

  3、しかし、まだぼけていないのでラジオばかり聞いている。国から賞状が届いた。

  「表彰状」から終いまで読み上げたら、直後に「福田総理はもうやめた人だ」と・・・
 
    「今は、あそーとか言う人だと・・」

⑤、食べることには、戦時中を除き苦労しなかった。

   1、自分の一生は、戦争中を除き食べるのは苦労しなかったけれど、お金がない

   のには苦労したと言っている。若いときに占い師にそう言われたが、・・・
 
  2、戦争中は、よう生きてきたものだと言う。ものは取られる、金は取られた、と


⑥、お金は、貯まらなかった、殆ど病気をしなかった。食あたりで1日寝たこと

   1、特筆すべきことは、病気にならなかったことだ。食あたりで1日寝たのを覚えて   

  いるが、その他は覚えがない。しかし、94歳くらいの敬老の日に家族みんなで食   

  事に行った帰り、食堂からさっさと一番に外に出ようとして5センチほどの段を踏   

  み外し、大腿骨骨折、年寄りおきまりのけが、入院するのもたいそうなこと。3カ   

  月と言われたが、2カ月と言ってやっと了承、ところが入院した部屋に、スエさん   

  の出身地島本町大沢のかたや向日市の方などがおられて、不安は解消、3カ月

  経って退院するとき、「もう帰るのか」ですって・・・

⑦、子供、孫 ひ孫沢山いて、みんな元気なのが一番嬉しい、
 
  1、子供は3人、(連れ合い3)と少なかったが、みんな病気らしい病気をしたこと   

  がない、 孫、・2,3,3と8(連れ合い6)人、ひ孫、2,4,5と11人  合計31人

  になった。
 
     おかげさんで病気入院中のものは誰もいない。

⑧、悲しかったことは、夫が早く死に 弟が戦争で死んだ、弟・妹が子供のとき死ん

  だ
 
  1、S、18・12・6夫死亡、7~8年の結婚生活だった。苦しい時代を3人の子   

  供を連れて暮らしてきたのだから根性が座っている。

      10人兄弟姉妹だったが、戦争で弟1人死亡、1人は帰ってきた。姉妹は4人大

  人になった、今、末の妹だけが東京にいる。小学校の時2人の弟・妹を亡くして

  る。
 
  後の2人はもっと小さいときに死んでいる。
     
  時々、みんなの夢を見ると言っている。特に父母と姉・夫は夢に出てきてもこっち   

  へこいとは言わないらしい。

⑨、自分の考えをしっかりもって生きていくこと。 死んだら土になる。
 
  1、しっかり生きていく為には、自分の考えをきちっともつことが大切だと言う。

   それから、20歳を超えたら自分の行動には責任を持て、以降口出しはしない

   と、自分で考えろと・・この考えで生きてきたし実行してきた。子を信頼している

   からあという。

   2、死んだら土になるのだから、生きられる間は、生きなければならないと、

   息子の満は、母への励ましの言葉として、「まだ子や孫に教えなければならない

   ことが残っている。それは、人間の死に方である。いくらお金を出しても自分の

   死に方を教えてくれる人はいないのだから、・・・と」それには何も答えず笑って

   いる。

⑩、父母について、お父さんは、死ぬまで本を読んでいた。父母はよく口論してい

  た、
 
  1、自分の両親については、父は死ぬまで本を読んでいたと言っている。

   父は、人前で上手に喋ったと言っている。選挙の応援演説もうまかったと、
 
  母は田舎の人だから屋根の上に登って雨漏りまで修したという。それは父には出

  来なかったと・・・父母はよく口論していたと。

    もう何も望むことはない、今日できたことが、明日も出来ればそれだけでよ   

   い。
  
 

    子供から母へ

 百歳まで生きた人間から 学ぶことは多い、しかも、病気らしい病気を せずに、今

日まで来た その心の持ち方を、みんな知りたがっている 最近の言葉でいえば、

ストレス解消法である。

 母は、「くよくよするな」と 、長寿の秘訣を ひ孫につたえた。

こんな短い言葉で、一生かかって得たことを伝えられることも 人間の達人ならでは

の名言だ。

あと何年生きられるか知らないが、達人の暮らしは今日も、淡々と続いている。
 

  絢さん ! 皆んなで握手

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする