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日本語版新聞紹介

憲法解釈を一内閣が勝手に破壊しようとする暴挙、立憲主義及び徹底した恒久平和主義に反する

2014-06-15 | 市民のくらしのなかで

集団的自衛権 解釈改憲認められない

広がる声・行動

声明や集会 各界各層 次つぎ

 
 
 

 

 集団的自衛権の行使容認に執念を燃やす安倍内閣。「他国に対する武力攻撃が発生」した場合でも無限定に自衛隊が武力行使をできる「要件」までつく ろうとしています。国会審議などで積み上げてきた憲法解釈を一内閣が勝手に破壊しようとする暴挙に対し、日本共産党や民主団体はじめ、各地の弁護士会、各界各層で反対の声が大きく広がっています。

弁護士会

 日本弁護士連合会(日弁連、村越進会長)はじめ、少なくとも46弁護士会・連合会などは、会長声明や決議で集団的自衛権行使容認の動きに反対を表明。シンポジウムやパレードにたちあがっています。

 横浜弁護士会、日弁連、関東弁護士連合会は12日夜、横浜市で憲法問題シンポジウムを開催。1100人定員の会場が満席でした。横浜弁護士会の小 野毅会長は、解釈改憲による集団的自衛権行使容認は「法律家として許せない」とのべ、17日に行うパレードへの参加を呼びかけました。

 埼玉弁護士会は9日、さいたま市で、集団的自衛権の行使容認に反対するパレードを行いました。市民団体も呼びかけに応え、550人が参加しました。

 大阪では7月6日、扇町公園で、大阪弁護士会主催の野外集会「平和主義が危ない!秘密保護法廃止!!」が予定されています。

 日弁連は5月30日、「立憲主義及び徹底した恒久平和主義に反するものとして、強く反対する」と決議しました。

九条の会 学者 宗教者

 「九条の会」は発足10周年を迎えた10日に「集団的自衛権と憲法9条」と題して講演会を開き、東京・渋谷公会堂を満席にしました。全国で7500にまで増えた「九条の会」が多彩な行動を展開しています。

 憲法学者だけでなく文学や哲学など幅広い分野の学者・研究者の呼びかけでつくった「立憲デモクラシーの会」(4月18日結成)の賛同者は1000人を突破。9日には国会内で記者会見を開き、呼びかけ人から「声を上げるべき決定的な時期に入った」との声が上がりました。

 宗教界では真宗大谷派が最高議決機関「宗議会」で「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」を全会一致で採択(10日)。「集団的自衛権の行使容 認への動きに対して、深い悲しみと大きな危惧を覚え、強く反対の意思」を表明。宗派を超えた共同アピール「集団的自衛権の行使に反対し、いのちと憲法9条 を守ろう」には5238人の賛同が寄せられています。

劇作家 映画演劇人

 日本劇作家協会(坂手洋二会長)は13日、昨年出された日本弁護士連合会の「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」に賛同を表明する、との声明 を出しました。声明では、「表現者として…論理的に破綻し、手続きも全て無視した解釈改憲という憲法違反を許すわけにはいきませんし、今後も広く国民世論 に働きかけていきます」とのべています。

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敗戦時に生き別れとなった北朝鮮残留日本人の父と妹を捜し続けて きた。

2014-06-15 | 日本と韓国・朝鮮・中国との友好

<拉致再調査>本当の「戦後」を…残留日本人の家族も望み

毎日新聞 6月15日(日)8時8分配信

 

 北朝鮮が国内にいるすべての日本人の安否確認のため、特別調査委員会の設立を表明して2週間がたった。再会を心待ちにするのは、拉致被害者や拉致の疑い が排除できない「特定失踪者」の家族にとどまらない。横浜市栄区の丸山毅さん(80)は、敗戦時に生き別れとなった北朝鮮残留日本人の父と妹を捜し続けて きた。「家族の消息をつかむチャンスが巡ってきた」と期待を寄せる。【黒田阿紗子】

 丸山さんは戦時中、今の軍事境界線に近い北朝鮮の開城(ケソン)で、果樹園を営む両親らと暮らしていた。ところが敗戦の直前、父が姉節子さんと妹みどりさんを連れて中国に旅行に出かけ、そのまま離れ離れになった。

 丸山さんは残った兄弟2人や母とともに、帰還する日本人の世話をしながら1年以上帰りを待った。しかし音信はなく、1946年冬、最後の引き揚げ船で日本に戻った。

 「あの旅行は姉と私が行くはずだったのに、父に『お前はもっと勉強しろ』と言われ、代わりに妹が行った。今ごろ北朝鮮にいるのは、私かもしれなかった」。複雑な感情が心に影を落とす。

 同じように北朝鮮に親族が残る日本人の紹介で、節子さんの居所が分かったのは52年のことだ。開城から約500キロ離れた北朝鮮北部の清津(チョンジ ン)だった。以来、250通以上の手紙が届いたが、朝鮮人と結婚して9人の子をもうけたことを知らせ、物資を送ってほしいと頼んでくるばかりで、一緒にい たはずの父と妹の消息は分からなかった。

 64年に1度だけ父から国際郵便で手紙が届いた。妻と息子たちの消息を逆に案じ、「私の生活も安定した」とあった。しかし、封筒に書かれた投函(とうかん)日は14年前。だいぶ時間がたっていたせいか、北朝鮮南部の住所地に何度も手紙を出したが、返事はなかった。

 丸山さんは2010年、朝鮮総連に依頼して在日朝鮮人の親族訪問団とともに訪朝。首都平壌(ピョンヤン)で節子さんと65年ぶりの再会を果たし、生き別 れた後の出来事を聞いた。旧ソ連軍の侵攻で開城の自宅に戻れず、父は姉妹の身を守るために頭を丸坊主にさせ、各地を逃げ惑った。逃亡生活が3年になったこ ろ、18歳になった節子さんだけが知人の朝鮮人に預けられ、生きるために結婚させられた。父と妹のその後の足取りは知らないという。

 「帰りたい?」。再会の席で出た問いかけに、節子さんは「当たり前でしょ」と即答したという。「私は日本人なんだから、日本で死にたい」

 節子さんは現在、85歳。行方の分からない父は生きていれば107歳、妹は76歳だ。北朝鮮は特別調査委の設置を先月29日に表明。生存者の処遇について日本と協議する、としている。

 「年齢的に父は難しいが妹は生きているかもしれない。少なくとも姉とは日本で一緒に暮らしたい」。丸山さんは家族で撮った約75年前の写真を見つめ、声 を絞り出した。「北朝鮮残留日本人は長い間放置され、悔しい思いをしてきた家族はたくさんいるはずだ。私たちはまだ本当の『戦後』を迎えていない」

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