どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

昆布巻き

2019年12月21日 | 日記

法則に則って(いい加減しつこい!) 今日は暗い一日になる

買い出しに出かけたスーパーではクリスマスらしい食材が並んでいるものの あまり盛り上がっていないように感じるのは 単に私ひとりの事情なのか

「平成の天皇誕生日」とある23日は今年はもう祝日ではないから 本当なら3連休になったのになあと残念に思っている人も多いことだろう

私にとってはお節料理の食材を買うことしか頭に無いが 野菜などはまだ買えないので とりあえず今日はいつでも買える昆布巻きを買ってきた

うたい文句には目立つように国産昆布使用と書かれているが それは当然だろう

問題は 干ぴょう!

これがなんと圧倒的に中国産が多い(記載があるだけ良心的ではあるけれど)

たかが干ぴょうではないか

確かに 乾物として売られているものを見ると 国産物の値段は3倍くらいしているけれど

でも 大きく国産~使用とあるのに 昆布を結ぶのに使っているあの干ぴょうがなぜに・・・

自然食品の店ですべて国産の昆布巻きを見つけたので 鮭とニシンを1本ずつ買って帰る

家事の割り振りを考え 買い物とお節のリストも作った

今年もあと10日

ここまで来たら無事に逃げ切りたい

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シーラッハの『刑罰』を読む

2019年12月20日 | 日記

そういえば 投稿の下書きページがリニューアルされた

少し前には いきなり記事の下にリアクションボタンなるものができて ああ・・・と思った

そのあとで 私は設定からこのボタンを非表示にした

他の人のボタンも 今のところは無視させてもらうことにする

 

法則に則り(少しくどいか) 今日は暖かくなる

しかし この暖かさも今年はこれが最後になりそうだという

それにしても今年は秋から冬にかけて 雨が多く 晴れた~という気分の日が少なかったように感じる

普通 関東の太平洋側の冬って 北風が冷たい日はあっても割と晴天の日が多いのになあ

今日は図書館で借りてきたシーラッハの『刑罰』を読む

200ページほどの本に12の短編が収められている

相変わらず 淡々と簡潔な文章でありながらも 決して気を抜けないストーリー展開に引き込まれて 一気に読んでしまった

著者の弁護士としての経験が小説にどこまで活かされているのかはわからないが 法律の絶対的神聖さと人としての限界(善悪の判断やら人間の感情やら)のはざまで考えることは多かっただろうと想像する

最後の話は 子供の頃からの友だちのこと

事件についてはここには書かないが 弁護士として生きてきた主人公は その友人の死のあとで書くことを始める

「新しい人生を歩みだせば楽になれると、私は思っていた。だが楽になど決してなれなかった。結局おなじなのだ。薬剤師であろうと、家具職人であろうと、作家であろうと。それぞれの決まりごとはすこし違うものだが、疎外感は残り続ける。そして孤独感やさまざまな思いも。」

彼自身の経験なのか 事実を脚色したものなのか それとも単に想像なのか 解説もあとがきも無いのでそれは謎だが このフィクションとノンフィクションの線引きの曖昧さが 彼の作品の魅力と私には思える

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タイムマシーンがあったら

2019年12月19日 | 日記

今日も法則に則り 雨の降りそうな暗い一日

夜中の暖かかった気温が昼に向かうにつれて次第に下がり続けるという奇妙な具合で そんな日はまたまた引きこもり

ただ単に興味本位で 私は古代史の謎というのが好きだ

真相はこれだ!とか 実はなんとかだった!とか 隠された真実!といったサスペンス劇場風の話でも楽しい

図書館では百人一首の謎に関する本を探したが 思うようなものがなかったので 万葉集に関するものを借りてきた

日本史嫌いだった私が面白いと思ったのが 梅原猛の著作だった(『隠された十字架』)

読み解くだけの知識も それを学ぶ気も無い私は ミステリを読むのとほとんど同程度の意識しか無いのだけれ 特に摂関政治が確立される前までの日本史に興味がある

何しろ 万葉仮名なんぞで書かれたものをどこまで完全に理解できているのだろうか

そして地球のこと それが球体で自転公転しているだの 地球上の大陸のことも知らない時 まだ国として確固たるアイデンティーを持ちえなかった日本の権力者にとって 中国や朝鮮半島はどのように見えたのだろうかと想像する

その時代から中国と朝鮮半島と日本は複雑な関係の中にあったわけで 言ってみれば仲の悪い親戚みたいなもの

もしも生まれ変わったら とか もしもタイムマシーンがあったら などという話は 私は好んでするほうではないが(生まれ変わりの話も) 古墳時代から8世紀初頭までの日本は本当はどうだったのか 見れるものなら見てみたい

ついでに言うと 次に見たいのは地球の未来

3世紀ほど先で良いから どのような世界地図になっているか 人間は幸せに暮らしているか 地球は美しい姿のままか そもそも地球や人類は存在しているのか それを見ることができないのは残念でもあり 案外幸せかもしれない

天気の悪い日は 古の人 はっきりとはわからなくとも存在したことは確かであった人のことを考えるのも けっこう楽しい

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法則に則り

2019年12月18日 | 日記

法則に則り(そうなのか?) 今日はまずまずの天気になる

洗えるパイプ枕も洗ってから 銀行と買い出しに行く

昔は混んでいた銀行の窓口も 今はもうほとんど待つことはない

もっと都会であればまた違うのだろうが むしろATMのほうが混み合っているのではないだろうか

時代の流れを感じる

となると 多額のお金を拾うといった事件もこれから先はもう起きないだろうし そのせいか 最近では 駅の券売機のあたりで小銭を恵んで欲しいという人が増えているそうだ

確かに 現金の流通が減ってくるということは 落ちている小銭を拾ったり 取り忘れた釣銭を自販機から得るということさえできなくなるわけだ

もう少し アバウトでだるだるな社会でもいいような気もするけれど・・・

無期懲役になりたくて まだ将来のある大事な命をあっけなく奪い 一抹の痛みさえ感じることもなく自分の無意味な望みがかなったことを喜ぶ人には 悶絶するほどの後悔を与えたいとは思うが しかし それほど寂しい人生観を持つことになった彼の生もあまりにも哀れ

買い出しに少し遠くまで足をのばして 今日の仕事は終了

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よくも悪くも一回こっきり

2019年12月17日 | 日記

一日毎に天気がころころ変わる

ということで 今日はまたまた天気が悪い

となれば 今日は読書

古今亭志ん朝に関するもの二冊 柳家小三治のものを一冊 いずれも図書館から借りてきた文庫本を読み始める

落語に関するラジオ番組があり 毎回 女性のゲストが来るのだが それが若い人だと まず落語を全くか あるいはほとんど知らないと言う

若い人との接点がほとんどない私は 当初 そんなことがあるのかと思った

私の子供の頃は テレビやラジオでの演芸番組は必ずあったから 特に興味を持たなくても落語がどんなものであり どのような話があるのかはそれなりに知っていた

もっとも クレイジー・キャッツやら爆発的人気だったコント55号などとともに育った時代なので ひと世代前の テレビがまだ無くてラジオだけだった人たちのように 志ん生・円生・文楽といった名人の記憶は私には無い

見ていた あるいは 聴いていたかもしれないが ああ いいなあ なんてことを思うほどシブい子供ではなかった

時代の趨勢というか 落語の世界は何度か浮き沈みがあったものの 最近はまたなかなかの人気だという

私が意識して落語に触れたのは 20年ほど前だろうか

ひとつのきっかけとしては 東京やなぎ会(句会)に集まる人たちが好きだった ということがある

志ん朝は 子供の頃からドラマやコマーシャルで見かける顔ではあったけれど 改めて聞くようになると 私にとっては名人と言われた人たちよりも上の存在となった

本人は若い頃 役者になりたかったようだが もちろんそれでも成功しただろうが 私は落語家になってくれて本当にありがとうという気分だ

声 姿 動き 色気 調子 どれをとってもこれだけ揃った人は そうはいないと私は思う

現在 落語会のチケットが手に入らないと言われるひとたちも多くいる

かなりいけてると思うひとたちもいるのだが 何か欠けているところを見てしまう

志ん朝亡きあと 小三治は この年代の人として落語会(江戸落語)を牽引してきた

彼の「まくら」は本当に楽しく あの飄々とした とぼけた口調が味だけれど きわめて真面目でクレバーな人だと感じる

本は 彼の落語の音源を文字おこししたものなのだが 黙読しているのに彼の声が聞こえ 顔や姿が浮かんでくるのが面白い

志ん朝に関する本の一冊は 彼の話を音源に残した人のものだったのだが 当初 志ん朝には断られ続けたそうだ

噺は一回きり 舞台で演じれば どんなに完ぺきであっても あるいは どんなに失敗しようとも それを二度と掴むことはできない そういう気持ちだったようだ

そこで思い出したのが エリック・ドルフィー

志ん朝がジャズが好きだったのであれば 間違いなく『ラスト・デイト』を聴いているはずだ

この曲の最後に ドルフィーの言葉が入っている

"When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again."

よくも悪くも 一回こっきりでしかない

しかし それは永遠でもある

私は そう推測している

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