あたたかい一日。
岐阜に行く用事があったので、
駆け足で梅林公園に行ってきました。
早咲きの梅は咲き終わりで、遅咲きはまだつぼみ、
ということで、盛りは過ぎたようです。
咲いていた梅は少なかったのですが、
そしんロウバイと梅の良い香りがただよっていました。
梅の花は、あらためて紹介します。
昨日03月11日の新聞の社説です。
東北の河北新報の社説と、
中日新聞の社説「3・11から3年」の昨日と一昨日の記事です。
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咲いていた梅は少なかったのですが、
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社説:大震災3年 復興の作法/「忘れない」を行動で示そう 2014年03月11日 河北新報 宮城、岩手の被災地を巡っていて見えてきたものがある。「確かなあした」が見えてこない現実だ。 地域や被災者で復興の状況は一様ではない。ただ、基盤整備が進む地域であっても、暮らしが戻ったようには感じない。福島第1原発事故の対応は依然手探り状態で、汚染された周辺は復旧以前の姿をさらす。 東日本大震災から、きょう3年を迎える。被災地は焦りを募らせ、被災者は戻らぬ日常に途方に暮れる。要の「住まい」と「なりわい」を十分得られないまま、時間が過ぎてゆく。 避難者は26万人を超え、岩手、宮城、福島3県で10万人近くが仮設住宅で暮らす。生産活動は風評にも災いされ、低迷。企業倒産は阪神大震災の3.8倍(帝国データバンク調べ)。一時的な復興特需頼みが続く。 「3年もたてば生活再建も…」。期待は遠のき、津波の猛威を物語る建物がほぼ撤去され、思い出が跡形もなく消えた更地が道のりの険しさを教える。 地震、津波、原発と前例のない複合型の大震災が人口減少、少子高齢社会を突き進む地域一帯を、広い範囲で襲った。地域産業も伸び悩んでいた。 再生の難しさは想定されていたし、そもそも社会の変化を見越せば、旧に復して落着とはいかない。持続可能なまちへ、長期戦を覚悟せざるを得ない。 ただ、待っていられない高齢者が多く、取り組みの停滞は被災住民の域外流出につながり、まちづくりを一層難しくする。被災自治体は住民と深く連携し、先を読んだ的確な計画の策定、実施を急ぐ必要がある。犠牲者の無念を忘れてはならない。 世論調査が一般の大震災に対する関心の低下を伝える。忘却は再生を進める被災地の意欲をそぎ、立ち直りに向けた被災者の気力をくじく。 「忘れない」。哀悼と共感の心を届け続けることが被災地を励まし、被災者に前を向く勇気を与えてくれる。 被災地の物産を購入し、実際に現地を訪ねて縁ができれば、その効果は二倍、三倍になる。ボランティア活動などに参加すれば、なおいい。 明日はわが身。被災地の現状を知ることで、備えの重要性を学び、地域の防災・減災力を高めることも期待できよう。 国政は経済と国家主義的な政策を軸に回る。東京などでは景気回復感と五輪開催ムードに浮かれ、震災対応がかすみがちだ。産業界も政府が打ち出す国土強靱(きょうじん)化に吸い寄せられる。 国は復興最優先の姿勢を堅持し、難航する事業用地取得や入札不調対策などに万策を尽くしているのか。産業界も震災直後に示した支援の熱意に衰えはないか、問うてみてほしい。 被災地は時計が早回しされ、30年後、50年後の日本をあらわにした。その創造は間違いなく、日本の未来を映し出す。 政治や企業、市民こぞって、あの日刻んだ思いをかみしめ行動で示そう。地域主導の復興を支える大きな力になるはずだ。 |
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【社説】死者の声に耳傾けよ 3・11から3年 2014年3月11日 中日新聞 津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて死者の声に耳を傾けたい。 故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。 三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。 はるか眼下に海を望む丘の中腹に立つ民家。一八九六年の明治三陸大津波を知る当時八十五歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。 風化する惨事の記憶 その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が「ここまで津波が来たとすると…」と驚きの声をあげたというのである。 この本が「海の壁」の原題で出版されたのは一九七〇年。その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。 文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で二〇〇一年に講演した際のエピソードを書き加えている。 「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである」 明治の大津波では羅賀に五十メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、沿岸市町村から集まった人々の顔に驚きの色が浮かんだのだという。 羅賀の高台には、明治の大津波で海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。一一年三月十一日の津波は、その「津波石」と集落を再びのみ込んだ。 親も子もない。助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。「津波てんでんこ」は、三陸の悲しくも重要な教訓である。 「われわれは明治、昭和の大津波と同じことをしてしまった」と三年前を振り返ったのは、名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた岩手県釜石市の野田武則市長である。 大きな揺れが収まって三十分ほど。いったん避難した後、家族の安否などを心配して自宅に戻った大勢の市民が津波にのみ込まれてしまった。「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」 犠牲多かった市街地 野田市長の率直な講演は示唆に富む。「犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった」「防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ」 守るよりも、まず、迷わず逃げよ。平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。国土強靱(きょうじん)化が海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。 よく知られるようになった岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の「高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。 その地では、三年前の大津波で住宅被害が一戸もなかった。死者の声を風化させなかったことが後の人々を守った好例である。 過去に繰り返された津波の被害や到達地点を伝える石碑や古文書は、紀伊半島沿岸部など南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも数多く残されている。 同じように関東、東海地方でも、一七〇三年の元禄地震津波の犠牲者を供養する千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、房総半島や伊豆半島にいくつもの津波碑が建てられている。 先人たちが石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。 その土地で何が起きたのか。将来、何が起きうるのか。逃げるべき場所はどこか。よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。 こうした津波碑は漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで判読の難しいものが多い。 巨大津波に備えよう 例えば南海トラフ地震の津波想定域にある三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」。だれにでも分かるように、地元の自治会が内容説明の看板を碑の隣に設置した。碑には、一八五四年の安政東海地震の津波で百四十一戸が流失し、十一人が溺死した被害状況とともに「後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。 人間は忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。なぜ、命を救えなかったのか。悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい。 |
【社説】みんなが闘っている 3・11から3年 2014年3月10日 中日新聞 原発事故を抱えた町の再起がどれほど困難であるか。震災からの三年はそれを思い知らせる時間だった。闘う人々にずっと寄り添わなくてはならない。 それは静かな時限爆弾のように胸底に沈み込み、あの戦争から七十年を経ても消えていなかった。 福島県相馬市の診療所「メンタルクリニックなごみ」の精神科医、蟻塚(ありつか)亮二さん(66)は沖縄協同病院心療内科部長を務めていた二〇一〇年暮れ、長い診療経験にはない「奇妙な不眠」を訴える男性に立て続けに会った。 戦争の心の傷は70年も 海外の論文を読みあさってみると、その不眠はアウシュビッツ収容所の生存者に見られた心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそっくりだった。男性に聞くと、太平洋戦争末期の沖縄戦を生き延びた人だった。 住民を巻き込んだ米国との激しい地上戦で、県民の四人に一人が犠牲になった沖縄の戦闘。その記憶は生き延びた者にとって深い心の傷となったのだ。 二十年前からこの問題に取り組んできた元沖縄県立看護大教授、當山(とうやま)冨士子さん(66)と一緒に一昨年、沖縄戦を体験した高齢者四百人に調査をしたところ、PTSDを引き起こしかねない重度な心の傷を抱える人が四割もいた。 蟻塚さんは不眠の高齢者を診ると、戦争の影響を疑うようになった。 砲弾の雨の中を逃げた人、家族を失った人、住民が日本兵に殺されるのを目撃した人…。つらい記憶が長い年月の後に仕事を辞めたり、家族の死に遭うなどふとしたきっかけでよみがえる。 夜中に何度も目覚め、パニックを起こしたりする。遺体の臭いを思い出すという人もいた。 沖縄の苦難に重なる 戦後二十年たって行われた精神疾患に関する調査で、沖縄は本土に比べて統合失調症などを発症する割合が高かったというデータがある。 それは戦争で負った心の傷が影響している。本土から切り離された米軍の統治下で、人権を踏みにじられながら貧困に苦しんだことや、今も続く基地と隣り合わせの生活など、つらい経験を重ねてきたことが発症のその引き金になった-。そう蟻塚さんはみている。 沖縄の心の傷は原発事故で傷ついた福島の痛みに重なる。 災害後の心のケアの重要性は阪神大震災や新潟県中越地震などの教訓として残された。 東日本大震災後に有志の手で開かれた診療所に昨春、蟻塚さんが所長として招かれたのも、沖縄での経験を頼られてのことだ。 毎月五十人の新患を受け入れ、五百~六百人の患者を診る。一割に震災や原発事故による遅発性のPTSDがみられるという。 震災の日、運転していた車ごと津波に流された男性は転がった消防車と、泥に埋まった人の姿がよみがえるようになった。眠れずイライラし、妻に怒ってばかりいた。 放射能を浴びてしまったと恐れ、息子と一緒に県外避難している母親は、突然不安に襲われるパニック症状に苦しんでいた。 PTSDだけでない。仮設住宅の生活が長引いてうつ状態やアルコール依存になる人も急増している。 知らない人間関係の中で刹那的になり「死んでもいい」とふと思う人が目立っているそうだ。 東日本大震災によって今も二十七万人が避難生活を送る。そのうちの十四万人を占める福島がとりわけ厳しいのは、放射能汚染からの回復や、将来の生活の見通しが立たないことだ。 福島はまた、震災関連死が千六百七十一人を数える。地震や津波で亡くなった直接死の千六百三人よりも多く、被災三県の半数を超えている。 長い避難生活で体調を悪化させたり、各地を転々とするうちに治療が遅れたりしたせいである。 自殺の多発も際立っている。 福島から聞こえるのは悲鳴のようなシグナルだ。 フクシマを忘れない 政府は低線量被ばくの問題から目を背けてきた。 年間の被ばく線量について、一ミリシーベルトから二〇ミリシーベルトまで許容できると基準を緩め、原発周辺自治体への早期帰還を促そうとしている。東電も避難指示区域の見直しのたびに賠償を打ち切っている。見せ掛けの事故収束と復興を急いでいるようにしか思えない。 政府や東電の不条理に遭っても、町の再建がどんなに困難であっても、人々は生き抜こうとしている。 本土は戦後、基地の負担を押しつけられる沖縄の苦難を忘れてしまっていた。わたしたちは福島からの悲鳴に耳を傾ける。寄り添うことを忘れてはならない。 |
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