みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

東日本大震災7年/歳月に流されず生きてこそ/「心の復興」への長い道/小梅の花も満開に

2018-03-11 21:02:08 | 花/美しいもの
東日本大震災から7年目。
小梅の花が満開になりました。










白花の枝垂れ梅は三分咲き。
  



咲きわけの梅、「思いのまま」。
一本の木に桃と白の花が咲くそうです。

南高梅の花も咲きました。
  
大輪の白花一重咲きです。
植えて5年目で、花が増えてきました。
大粒の実が取れるのか楽しみです。

人気ブログランキングへ
応援クリック してね 


 社説:東日本大震災7年/歳月に流されず生きてこそ
2018年3月11日 河北新報 

 もう一度、あの日に戻って考えてみる。津波の夜、大火災が起きて集落ごと一面の焦土と化したまちにいた。
 戦場跡のような現場を前にし、悲嘆の後、ふと高揚感が湧いた。「ここからはひたすら復興の道を歩むだけ。何年かかっても」。そう信じた。
 東日本大震災は発生からきょうで7年がたった。あの日始まった被災地再生の着地点はまだ遠い先にある。
 この震災で避難生活を送る人たちは依然、7万人超に上っている。宅地や災害公営住宅の整備は計画の8~9割までこぎ着けたが、「安住の地」に腰を落ち着けることができないでいる人も多い。
 時間に翻弄(ほんろう)された被災者の失意の言葉を度々耳にした。「完成を待てなかった」と、よその土地に去った人、「老後が不安で動けない」と仮設住宅で萎縮する高齢者ら。公営住宅の一室で孤独に陥り悲しい最期を迎えた人もいた。
 7年たっても、癒え難い傷や割り切れぬ思いは払拭(ふっしょく)されていない。歳月に流され、取り残された人たちをどう支えられるかが問われている。
 ただ、時はむなしく過ぎていったわけではない。「整理する時間が必要だった」。市民の立場で気仙沼市の復興に関わってきた会社社長高橋正樹さん(54)は言う。
 例えば巨大防潮堤計画。震災の翌年、市民参加の勉強会を立ち上げた。地域事情に沿った堤防のあり方を徹底的に議論した。その蓄積が住民を鍛え行政を動かし、昨年末、宮城県はついに気仙沼湾の一部地区で建設を取りやめた。
 住民が納得できる目標を定め、そこに向かう過程が最も大切なのだろう。復興の原理とはそういうことだ。
 高橋さんは木質バイオマスの熱電併給事業を動かす。山の間伐材を生かし、原発に頼らないエネルギー循環を地域に根付かせようとしている。
 試行錯誤し軌道に乗ってきた難事業。震災がなければ手掛けることのなかった仕事だった。時間をかけねばできない新しい地域づくりもある。
 列島は今、大災害の時代と言える。震災前から人口減が顕著だった東北は、これからの日本社会の「モデル」になり得る。そうであれば、私たちが厳しい復興のプロセスをどう歩むかが、なおさら重要な意味を持つことになろう。
 原発とのスタンスも大きな鍵だ。福島を中心に襲った災禍は、避難者や自治体に全く別の時間軸を強いて復興の足取りを不確かにしている。
 河北新報社の昨年の調査では、東北電力が目指す女川原発2号機の再稼働に7割近くの宮城県の有権者が反対した。過ちを繰り返すことはできない。事故の教訓をどう生かすか。真剣な議論が必要だ。
 失った日常を取り戻し、古里をつくり直そうという被災地の営みに終わりはない。地に足を着け一日一日を生きるしかないだろう。誰にとっても無駄な歳月はないはずだ。


  社説:大震災から7年 「心の復興」への長い道 
2018年3月11日 朝日新聞

 福島県内のメンタルクリニックを女性が訪れたのは、昨年のことだった。
 その夏、北朝鮮が弾道ミサイルを発射した。住民へ避難を呼びかけるJアラートが、北海道と東日本の11県に流れた。
 あれで福島第一原発の事故の記憶がよみがえってしまったのだという。当時と状況が違うことは分かっている。でもふるえが起き、一人になるのが怖い。女性はそう訴えた。
 東日本大震災から7年。
 被災地を歩くと、新しい公営住宅や区画整理された道路などが目に映る。ハード面の整備はめどがつきつつある。
 もう安心して暮らせるのか。いや、そうではない。
 現地では最近になって、再び恐怖や喪失感にさいなまれ、心身の不調を訴える人が現れている。深刻な事態だ。
 例えば宮城県では、小中学校で不登校になった子は3195人(16年度)にのぼり、前年度より362人増えた。なかでも中学生の不登校の割合は全国で最も高い。震災の影響を指摘する声は多く、村井嘉浩知事は先週の会見で「復興の進展に伴って、いろいろな新たな課題が出てきている」と述べた。

 ■ある精神科医の経験
 一見平穏に日々を送りながらも、胸のうちに異物をのみ込んでいる。福島県相馬市で精神科医をしている蟻塚亮二(ありつかりょうじ)さんは、そうした被災者の心の傷を放っておくと、ずっと先まで引きずることになると警告する。5年前まで仕事をしていた沖縄での経験に基づくものだ。
 そこで見たのは、戦争のことを思い出して、いまも眠れない夜があるといった悩みを抱える高齢者たちだった。
 花火の音を聞いたり東日本大震災の映像を見たりすると、当時がフラッシュバックする。足の裏の痛みを訴える女性は「死体を踏んだから罰があたった」と自分を責めた。
 学徒兵として動員された元県知事の大田昌秀さんは、亡くなる前の病床でうわごとを言った。「ほら穴を探しなさい」「早く弾を兵隊に」
 蟻塚さんたちが沖縄戦体験者を調べたところ、4割に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあった。
 あらがいようのない突然で圧倒的な力。目の前で理不尽に奪われる無数の命。自分だけが生き残ってしまったという自責の念。家族も、財産も、生活の基盤も根こそぎ奪われ、ふるさとに戻ることもできない。震災被害の特徴は、73年前と重なる。

 ■それぞれのペースで
 沖縄だけではない。広島、長崎、各地への空襲、引き揚げ時の悲劇。そして戦後も、日本は多くの災害に見舞われ、悲嘆の記憶を重ねてきた。
 それを自分の中にむりやり封じこめようとすると、人の心と体は悲鳴をあげる。
 被災地では、行政やボランティアの手助けを受けながら、心の傷を癒やす試みが続けられている。大変な経験をした者同士が語り合い、思いを共有することで、「つらいのは自分ひとりではなかった」と重荷を下ろせるようになる。
 忘れてならないのは、心の復興のペースは一人ひとり違うということだ。
 東北学院大の金菱(かねびし)清教授のゼミ生たちは、被災者が見る夢の話を集めた。
 津波で亡くなった友人と、その直前に校庭で別れた場面を何度も見て、汗ばむ若者がいる。一方で、震災直後は夢の中で「戻りたい」と訴えていた亡き妻が、「どこにも行かないよ」と言うように変わり、生きる力をもらったと話す男性がいる。

 ■「語る」ための年月
 そもそも体験を語っても仕方ない、と思っている被災者も少なくない。特に福島には、避難や賠償をめぐる対立や不信が重なる。家族や地元同士でさえ、いや家族や地元同士だからこそ打ち明けられない。重大な被害を受けた人に比べれば、自分に語る資格などない。そう感じている人に無理強いしたりすれば、傷をさらに深くする。
 沖縄大の吉川(よしかわ)麻衣子准教授には、印象に残る男性がいる。
 戦争体験を語りあう場に参加しながら、自らについては決して明かさない。6年近く集まりを重ねたある日、初めて口を開いた。軍人として親子の命を奪ってしまった、と。「苦しくて、でも誰にも言えなかった」
 語りたくない、でも知ってほしい。背負うものが重いほど、機が熟するまでに長い月日が必要なのだろう。
 心の傷が癒えるとは、亡くなった人を忘れ去ることでも、記憶にふたをすることでもない。被災者が、いまの自分を形づくる大切な一部として、過去を振り返れるようになること。そのためには、周囲による息の長い支えや見守りが必要だ。
 被災者一人ひとりの心のそばにいて、時が満ちたときに語れる相手となる。そういう存在でありたい。 



 記事は毎日アップしています。
明日もまた見に来てね
  




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月10日(土)のつぶやき

2018-03-11 02:03:44 | 花/美しいもの
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする