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明治26年6月12日、侠客清水の次郎長が清水に没した。享年74歳であった。子どものころ、ラジオから流れてくる広沢虎造の浪花節に家族が聞き入っていたのを思い出す。「清水港の名物はお茶の香りに男伊達」。しぶい声が次郎長の活躍のくだりになると子どもながらに興奮したものである。大川橋蔵扮する森の石松も映画になって幾度となく上映された。
なぜ清水の次郎長が世評に高かったのか。維新の政府に道路探索重任を命ぜられて、これに感激した次郎長は公事に従事し死力を尽くしてしばしば功を立てた。明治元年9月、江戸を脱走した幕士が清水港で官軍に殲滅されたとき、死体が港の海に浮いて漂ったがこれを収めるものがなく幾日も放置されていた。次郎長は夜分に子分数名を連れて屍体を集め、ひそかに葬った。官軍のなかにはこの行為を咎めるものがあったが、次郎長はひるむことなく、「死ねば仏、仏には官軍も徳川もない。仏を葬って悪いというなら次郎長はどんな罰でもお受けします」と言って動ずることもなかった。
次郎長は荒地を拓くため、懲役囚数十人を使った。その際とくに願い出て、囚人の手錠や足枷をとり、手足を自由に使って作業を行わせた。前例のないこのやり方に囚人たちは感激して作業を大いに捗ったうえ、一人の逃走者もでなかった。これなど、役人にはとうてい思いのよらない発想であった。
また次郎長が東京で山岡鉄舟に呼ばれて会い、清水への帰路、箱根の坂道を駕籠をやとって下った。駕篭かきは酒手をゆすろうとしてわざと乱暴にかつぎ、危ない目をみせたりした。黙っていると、駕篭かきはわるのりして、何とかかんとかと嘲罵を浴びせる。次郎長はかっとなって刀を抜こうとしたが、刀は鉄舟からの拝領品であった。気をしづめ、駕篭かきのなすまかせて、大いに笑い、果てにはうとうとと眠りかけた。それを見て、駕篭かきはかえった気味がわるくなり、悪態も止めてしまった。三島につくと宿の亭主が出迎え、「次郎長親方お手間をとらせましたな」というので、客が次郎長と知って駕篭かきはぶるぶると震え、地べたに這いつくばって、ひらあやまりにあやまった。
次郎長の武勇伝は、数え切れない。戦後の日本人にもっとも愛された侠客であった。