常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

富士山

2013年06月23日 | 登山


早朝、畑の隣人から声をかけられた。「今度、一緒に富士山にのぼりませんか」突然のことに「でも、人ばかりで登山どころではないでしょう」「ああ、今度世界遺産に登録されたからね」こんな会話だった、実は富士山に登る気ははなからない。山の会でも富士山への山行は何度も計画し、いつも敬遠していた。登ってきた人から、「人が多くて、砂ぼこりで顔が真っ黒になった」という話を聞いていたからだ。

落石事故で人が亡くなった事故もあった。ぞろぞろと、蟻の行列のように登るのは、ちょっと気が進まない。富士山は登る山ではなく、眺めて楽しむ山だ、自分のなかではそんな風に決め込んでいる。もう1週間もすれば、山開きになって人が殺到する。年間30万人が登る山であるが、世界遺産の登録で40万を越えるのでは、という予測が出ている。

静岡の沼津に兄がいて、会いに行ったとき沼津から眺めた富士山の大きさには圧倒された。妻の妹が藤枝に住むようになって新幹線ででかけて、車窓から眺めた富士山もきれいだった。万葉集にもこの山の眺めを詠んだ歌が収められている。山部赤人の名歌だ。

天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振り放けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り告げ 言ひ継ぎ行かむ
富士の高嶺は

反歌
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

田子の浦は沼津を海岸沿いに南下して、富士市のあたり、富士川の北側の海岸である。私が見た沼津からの眺めとはそんなに違わないかも知れない。山辺赤人は長屋王の庇護のもと宮廷歌人として宮廷に仕えた。雪に輝く孤高の富士の姿を、歌人は浜に沿って歩きながら富士を見ている。それはどこからでも見えるというものではない。低山に遮られているところから、全貌が見えるひらけた地点、つまり田子の浦でこの絶唱は得られた。いわば富士讃歌であるが、田子の浦で得られたこの歌は、宮廷に帰って長屋王や天皇の前で意気揚々と披露されたことであろう。

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栗の花

2013年06月23日 | 日記


栗の花が咲いた。昔、沼で鮒釣をしていたころ、栗の花が咲くと鮒は浅瀬を去り、あたりが一服するので、この花を嫌った。この花の匂いも、どこか生臭く好きになれない。だが、花が終わって、実をつけ、秋の風で実を落とすころになると栗ひろいに夢中になる。栗は囲炉裏の灰の中に入れて、焼けるのまった。ぼん、と音がして栗がはじけると、兄弟で焼けた栗を奪い合って食べた。

北海道の実家には、栗の木が3本あった。栗の木の向こうは崖のようになって、その先に石狩川が流れていた。北海道は夏に暑いのは、当時7月の1週間ほどであった。栗の木の下に筵を敷き、そこに転がって涼風に吹かれるのが好きであった。手に文庫本を持って、あまり理解できないような文字を目で追った。

イガがまだ青いうちに落として、中から熟さない実を出して食べるのが好きだった。近くの薮にスグリの実が生り、熟するの待ちきれずに採って食べた。思い返すと、そのころの子どもたちは皆空腹であった。あたりを見回し、なにか食べられるものがないか、いつも探していた。木苺が生ると、熟すのを待って食べた。このときは、ひとりで薮に入り、誰はばかることなく腹いっぱい木苺を食べた。

トウキビができると、実が入るのを待ちかねて、莢の皮をむいて実を確かめた。2、3本のトウキビを採ってくると、きれいに皮をむき、七輪に炭をおこして焼いた。くるくるまわしながら、遠火がまんべんなく日があたるようにして、焼きあがるの目を凝らした。やがて焼けたトウキビの香ばしい匂いが鼻をつく。

こんがりと焼き上がったトウキビにかぶりつくようなことはしない。一粒、一粒をいとおしむように芯から採り、皿にためて、一本を採りきるまで食べるのを我慢した。一皿になったところで兄弟が一緒に食べた。あのころの香ばしいトウキビの想い出は今も忘れられない。その後、帰郷して昔のトウキビの話をすると、昔のトウキビを作っている農家はなくなっていた。ハニーバンダムなど甘く、柔らかい実が主流で、昔のは作っても売れないとの話であった。それにしても、あのころ、貧しく腹をすかせながらも、食べものがおいしかった。
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