元禄12年6月16日、江戸の政商河村瑞賢が82歳で没した。江戸幕府が安定するにつれて、江戸の米に不足が生じた。幕府は奥羽地方の官米を運ぶため、東廻りに加えて、酒田港から下関を経由する西廻り航路の開発を御用商人の河村瑞賢に命じた。最上川の舟運によって酒田に集められた米は、千石船に積みかえられて江戸へ送った。日本海の要所、要所に船と合図する番所に狼煙台を設け、陸から舟や船乗り、積荷の状態をチェックし、海難事故には迅速に対処できるシステムをつくりあげた。この航路が軌道にのると、酒田は空前の繁栄を見せ、その様子は井原西鶴の『日本永代蔵』にも描かれている。
酒田の日和山公園には、瑞賢の銅像が建ち、千石船のミニチャーも展示され先人の功績を伝えている。瑞賢は伊勢の貧農に生まれ、13歳で江戸に出、車力人足から身を起こして商人になった。その成功を語る逸話が今に残っている。明暦の振袖火事が出たとき、瑞賢はわが家が焼けるのを構わずに木曾へかけつけ、材木を買い占めて、木材の高騰によって大儲けする話は、大石田の紅花商人・鈴木清風と並んで有名である。
世間で富豪と言われるようになっても瑞賢には奢るところがなかった。下女が働く台所へも気軽に行って竈を覗く。薪が多くくべ過ぎていると、その中のいく本かを取り出して消す。決して叱るような様子は見せず下女を諭すようにやさく言う。「ものはほどを過ぎるとかえってよろしくない。薪もそうたくさんにくべてはよく燃えるものではない。今のわしの身代で薪の二本や三本を惜しむものではないが、無用のことは薪一本でも費やさぬようにせなばならない。」これだけ懇切に言うと、下女も納得して教えを聞くようになる。
瑞賢は若い書生を可愛がった。家に書物をたくさん揃え、書生に貸して読ませた。かの新井白石も瑞賢の本を借りて読んだ一人であった。白石のひととなりを見抜いた瑞賢は、孫娘に娶わせようと話してみたが、白石はこれを断った。富豪の家に身を置いてしまうと、努力がなくなり、自らを高めることはできないと考えたからであった。この白石の言葉を聞いて、意に介することなく、かえって白石に親しんだ。『奥羽海運記』を書いて瑞賢の偉業を世に知らせたのは、新井白石であった。