天正10年6月2日の早朝、京都、本能寺に近習100余人と泊まっていた織田信長は異様な物音に目を覚ました。隣室の森蘭丸に声をかけた。「いかに蘭丸。あの物音は軍兵寄すると覚ゆるぞ。物見せよ。」臥せていた蘭丸はがばと起き、「畏まって候。」とのみ言い残し駆け出した。
蘭丸は高欄に片足をかけ、雲を透かしてみれば、東雲の空に靡いているのは、水色桔梗の九本旗。「さてこそなと」と合点して帰り、信長に言上した。「明智日向が謀反に候」信長無念の歯噛みして、「さらば最後の軍せん」と単衣に丸帯を前に結び、弓矢をとって出てきた。「方々出会え、謀反人ぞ」百余人の近習たちに、潮の如く押し寄せる光秀の大軍。「小癪なり」と信長は、襖を盾に、弓に矢をつがえ先陣を駆けてくる兵をばらばらと射倒した。
欄丸は十字の槍を引きしごきて奮戦したが、明智三羽烏のひとり、安田作兵衛に首級をあげられた。信長も数箇所に矢傷を負い、白い単衣は朱に染まった。「これまでなり」と内に入って、自ら割腹して果てた。殿の最後に近習たちは襖障子を積み重ねて火を放つ。炎はめらめらと燃え上がり、見る見る四方へ広がり、黒煙のなかに近習たちは或いは討たれ、あるいは自害して一人残らず死についた。紅蓮の炎に包まれた本能寺を取り巻く明智勢の鬨の声がどっと上がった。
「人間五十年、下天の内にくらぶれば夢幻の如くなり。一度生を受け滅せぬ者のあるべきか」信長が生前愛唱した謡の句であるが、その句通りの最後であった。
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