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東両国に国技館が開館したのは、明治42年のことであった。桟敷から4階までの客席は16000席であったというから、当時の相撲人気は大変なものであったらしい。全盛の常陸山、梅ヶ谷の両横綱が張り合い、新しい国技館の完成で、相撲人気はさらに盛り上がった。この2年ほど後に太刀山という強い横綱も誕生している。
そんな国技館で相撲興行のない時期を選んで、活動写真の興行を考えたものがあった。活動写真は明治30年ごろに輸入されていた。外国風景とか外国婦人のダンスの実写などのごく短いものであったが、写真が動くというので評判を呼び、歌舞伎の桟敷が60銭というとき、活動写真は特別席1円、1等50銭とう法外な入場料でも、興行に人があふれ、日延べする事態になっていた。そこに目をつけたのが、活動写真の国技館での興行である。
出し物は「大西郷一代記」と「孝行兵士」に決まったが、丸い国技館でどのように上映するか。知恵を絞って考えだした方法は、土俵の中央に両面のスクリーンを置き、東西の桟敷に映写機をふたつ備えて、同時に映写するということであった。大変な苦労のもと準備をととのえ、いよいよ初日の当日を迎えた。
会場のライトを落として、ひときわ高く呼子笛が鳴る。上映の合図である。両面のスクリーンへ向けて映写機から、映像が投影された。弁士が映像を見ながら、調子よく物語を進めていく。ところが、映写機は手動である。技師がテンポを合わせて同時に映写する必要がある。最初はどうにか順調にいったが、次第に両面のシーンに違いが生じた。困ったのは弁士である。片面に沿ってセリフを言えば、片面の方に合わなくなる。
観客から野次が飛ぶ。弁士が焦れば焦るほどチグハグになって収集がつかず上映中止に追い込まれた。興行会社と国技館が収入を折半するという約束であったが、この事態で双方とも大損であった。映画の始まりは、こんな失敗をくり返しながら、その後の日本映画の隆盛へと向かっていった。
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