常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

山形城と寺院

2014年06月16日 | 日記


最上義光が山形城主となるのは、元亀2年(1571)のことである。この年義光は26歳であった。本格的に領内統治に乗り出すのは、天正3年ごろ、義光30歳ころからである。義光を取り巻く領内の勢力として、北の天童氏、西の寒河江氏、南には上杉氏、仙台に伊達氏らの領国が犇いていた。天正10年に本能寺で、織田信長が明智光秀の謀反で討ち死にするなど、戦国の世は大きく動いていた。

義光はこれら自らを脅かす勢力に対して、各方面ごとに寺院を配備していった。各宗派に深く帰依し、土地や建物を寄進していくのだが、その寺院が出城的な役割を担っていたことは想像に難くない。城下の北の守りとしては、天童街道に接する地に両所宮を配し、寒河江街道に沿っては青林寺などの最上氏ゆかりの寺社を配した。

北東部つまりは鬼門の守りとして薬師宮がある。また東部、仙台方面への守りは、天満宮、専称寺を中心とする寺内、光禅寺が配された。義光がもっとも重視したのが、この地域である。さらに上山街道に沿って八幡宮、浄光寺、誓願寺が配され米沢の上杉への守りとした。

山形市内を歩くと、これらの寺院が多くあり、山形城へと通じる道路は幾重にも折れ重なっていることがわかる。このような寺院の配置や道づくりは、攻め込んで来る敵を意識した街づくりになっている。ひとたび、合戦となれば、広大な敷地をもつ寺院へ、武士を配して備えたであろう。小高い山のあちこちには、出城や物見の設備が配された。

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