
最上義光の菩提寺である光禅寺の庭園に春雨が降り、木々や花々は美しく咲き誇っている。近くを流れる堰からの水を、池に引き入れ、手入れされた木々に目が吹いて、鮮やかな緑になった。この庭園の東南脇に、義光の墓を殉死した4人の家臣の墓が守るように並び立っている。冬の淋しい季節から生気を取り戻した庭園を見て、墓に眠る義光主従は何を思うのであろうか。
慶長16年最上義光は、徳川家康の推挙されて近衛少将に叙された。この頃から義光は健康を害し、病床に伏せがちであった。すでに死期を予期していた義光は、慶長17年、受けた恩義に礼を述べるために、病をおして駿府に家康を訪ねた。義光の心情に感じ入った家康は、自ら病状を尋ね、薬を与え、夜具や頭巾を贈った。

武将としての恩義を果たして領国へ帰った義光であったが、その後病床を離れることができず慶長19年1月18日、69年の生涯を閉じた。葬儀は光禅寺で、死の翌月2月6日にとり行われた。法号は光禅寺殿玉山白公大居士。夕刻、4人の家臣が切腹して殉死を遂げた。
そのひとり寒河江肥前守は、俳句形式の辞世を残した。
「わが主は、神となって黄泉へと去ってしまわれた。その悲しみ堪えず、後に従い奉ろうと思い
霧となり霞と消えしゆふべかな