森敦の『鳥海山』を読む。この小説は、森敦が芥川賞を受賞した『月山』が文庫になって、そこへ入れたものだ。この小説を読もうとするのは、今週末山頂小屋泊まりで鳥海山を登る予定があるからだ。月山の麓の集落で、お寺に籠っていた経験を持つ森は、鳥海をどんな眼で見ているか、興味がある。『鳥海山』は、この山と関わりのある掌編を集めて、こう名付けたものだ。その一つ、「初真桑」は、吹浦の鄙びた旅館に泊まり、隣室の行商人の話や、汽車で酒田へ出かけ、そのなかで出会う老人たちの姿を描いたものである。
「湿潤はこの地方の特色であるが、鳥海山は遥かな月山と相俟って雨雲を呼び、おのれに近づこうとする者に、いよいよ自らを隠そうとするからで、芭蕉に従った曽良も、酒田から砂浜を、二つの渡し渡って吹浦に着いたときは、小降りだった雨もどしゃ降りになっていたと言っている。」
森は吹浦の集落で、鳥海山がすっきり晴れた姿を見ることは珍しいと書いている。まして山の上では、身体ごと飛ばされそうな風が吹く。ここを登山するのは、よほど気象条件を考慮に入れなければならない。酒田から吹浦の記者のなかで、ひとりの老婆が登場する。婆には似合わぬ腕時計が止まったので、しきりにどうすべきいじっている。乗り合わせた爺さんが、どれどれと時計を手にとり、まだ動いていることを確認した。婆さんが、背中の包みから取り出したのは、畑で採れた真桑瓜である。汽車のなかでシンジョを煮たのを食べる人、そこへ瓜の香りがほのかに漂う。
この汽車のなかは、現世か、あの世か、それらが入り混じた世界。煮魚の生臭い匂い、真桑瓜の香りが辛うじて生きている証として示される。年老いてから書かれた森の小説は、つねに人の死が意識されている。