常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

菊池寛

2022年06月26日 | 
あのアクシデントから山行がなくなってしまった。登山ロス、仲間たちとの気がるな会話もできなくなっている。戸外の散歩も余りの高温と雨天で思うようにできない。勢い、近所のブックオフの100円コーナーを漁ることになる。河盛好蔵の『作家の友情』のなかに、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄の話が出てくる。3人は第一高等学校の同級生だが、中学時代に経験を積んだ菊池が24歳で、芥川と久米は20歳。年が離れて、なかなか、心が溶けあうところまでいかなかった。一高で事件が起き、菊池は冤罪を被る形で京都大学へ行く。久米と芥川は東大にすんなりと入学した。

当時の京大には,詩の翻訳で名をなした上田敏がおり、菊池はその伝手で文壇への登場を夢にみたようだが、偏狭な上田教授の姿勢に失望する。京都で孤独に沈んでいた菊池を救うのは、東大の芥川や久米などの仲間である。大正5年に、彼らは同人誌「新思潮」を立ち上げ、京都の菊池へも投稿を促した。求めに応じて菊池は「坂田藤十郎の恋」を書き送ってきた。その発刊に芥川は「鼻」を書いて夏目漱石に激賞されることになる。この7月、芥川は東大を卒業すると、海軍機関学校の教官となって、横浜に住んだ。菊池も京大を卒業し、友人の成瀬の家に寄食し、時事新報に入社した。芥川は月給60円を得ることになったが、菊池は25円の月給で下宿もままならず、当面寄食せざるをえなかった。

大正6年から7年にかけて、菊池を待ち受けていたのは流行作家への道である。大正5年、戯曲「父帰る」を新思潮に発表。この年漱石の死去に伴い新思潮は「夏目漱石追慕号」をもって廃刊となる。その後、自身の結婚を経て、「暴君の心理」20枚を書いて初めて稿料を取る身になった。大正7年に「帝国文学」に「悪魔の弟子」、中央公論に「無名作家の日記」を発表。最初の単行本「恩を返す話」を春陽堂から刊行。同年9月には「忠直卿行状記」を発表した。大正8年には、時事新報を退社、芥川龍之介とともに大阪毎日新聞の客員となり、給料を得ながら執筆し、出社という拘束は受けない身となった。1月
、「恩讐の彼方に」を中央公論に発表。同年7月には、芥川とともに長崎の旅を楽しんだ。

菊池寛が「文藝春秋」創刊したのは大正12年のことである。菊池のポケットマネーで始めたもので、ペラペラ紙の28頁、定価10銭、3000部印刷の小雑誌であった。その後この雑誌の売れ行きは驚異的だ。3000部から始まった小雑誌は翌13年の1月に17000部、14年には26000部、15年には110000部という大部数になった。編集者に直木三十五、菅忠雄、斎藤竜太郎らの辣腕を迎え、それを指揮する菊池寛の目利きが物を言っている。時代の流れを読む感覚、人々の心の赴く処を見抜く感の鋭さが雑誌の売れ行きに貢献した。集まってくる文壇のなかで、菊池に愛される者は成長し、彼に疎まれる者は没落していった。菊池は文壇の大御所の地位を築き、大きな勢力を振るうようになる。

文藝春秋社の芥川賞、直木賞が制定されたのは昭和10年のことだ。直木が亡くなった翌年である。芥川が自死を遂げたのは昭和2年である。菊池は『半自叙伝』の最後に、芥川の死に触れた一文がある。「その頃から大正12年頃までが芥川と最も親しく往来した時代で、地震後殊に芥川の死の一、二年前はあまりに芥川を放りぱなしにしておきすぎた。死んでから、今更すまなく思っている。」その頃とは、長崎の旅を指している。若手作家の登竜門としての文学賞に芥川の名が冠されたのは、彼の死についての思いがそうさせているのではないか。直木の死の翌年に両賞が制定されたのは、なおその思いを強くする。
コメント
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