常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

霞ヶ城

2012年05月18日 | 日記


霞ヶ城の堀にそって一周する散策路がある。
その散策路を散歩したのは、もう数十年も前のことだ。仕事で使っていたバイクの事故で足を骨折し、リハビリを兼ねての散策であった。桜の季節には花を仰ぎながらめぐる道は、様々な思いで散策する多くの人々と顔見知りになる機会であった。いまでは、懐かしい思い出である。一本の桜に、「血染めの桜」と書き添えた板書があった。

戦国の世に勢力の拡張を競うなかで、白鳥十郎という武将が、山形城主である最上義光に咎められるような動きをしていた。白鳥十郎がどういう素性の武将であったか、歴史の上で明になっていない。下克上の世にあって、力を誇示して義光を追いやって出羽守の地位を狙っていた。近隣の豪族である寒河江氏と戦をし、また織田信長に使者を送ってよしみを通じようとする動きを見せていた。

出羽探題の家柄であった最上義光が、このような危険な動きを見せる白鳥十郎を許すことはできようはずがない。義光は、婉曲な方法で十郎を屠る道を選んだ。政略結婚という甘言で縁を結び、十郎を油断させ、自ら病であると偽って十郎を霞ヶ城へ呼びそこで殺害させた。その折に飛び散った十郎の血が、表の桜にかかり血染めの桜となった。出羽の豪族のなかで頭角を表わしていく、義光の戦略を語り伝える伝説である。

きょう、この「血染めの桜」が、先の大戦の軍歌として歌われていたことを偶然に知った。「年金受給者の交流の会」に出席し、90歳の老人と席が隣り合わせになった。名前を聞かなかったが、Aさんとしておく。Aさんは年齢にしては、矍鑠として、酒を好み、話好きであった。宴会は酒が進み、やがてカラオケになった。多くの人たちがおはこを披露し、手拍子がおこり、場は盛り上がった。

だが、Aさんはその場の雰囲気に不満げであった。「わしは、どうも演歌は好かん。もう知る人も少なくなったが、霞城の第二連隊で歌った軍歌をカラオケなしで歌うから聞いてくれ」とマイクを握った。Aさん行進曲調の調子に合わせ、こんな歌詞を唄った。

霞ヶ城に咲き誇る 血染めの桜仰ぎ見よ

紅匂うその色は 大和心の形とて

絨衣の袖に散る花は 七生の忠を偲ぶなり

Aさんは大和心を形とて、まで唄って「終わり」と言ってこの軍歌を歌い終えた。私はAさんから、この歌の詩をいま一度聞いてメモに書き取った。「もう、この歌を歌える人はいない。だが、自分もここに続く詩を忘れてしまった。さびしいね」と話してくれた。
Aさんの思いを知り、また最上義光が残した伝説がこんな形で今に生きていることを知って、私は驚くと同時にこの詩をネットで検索し、このブログに書きとどめることとした。

明治三十一年の年 春も弥生の末つ方

千代田の森に畏くも 皇御国を守れよと

朝日輝く我が軍旗 大御手づから賜りぬ

血染めの桜とは、戦乱の世のシンボルである。そのシンボルを醜いものとして否定することは、人間の存在の皮相を見ているに過ぎない。Aさんが演歌を否定し、この血染めの桜を唄った心のなかに、こうして歴史の悲劇に正面から立ち向かえという叫びが隠されているような気がして、酒の酔いが醒めていくようであった。


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最上義光

2012年05月17日 | 日記


曇り、千歳山へ。
最上義光の菩提寺、光禅寺の庭園が最も美しい季節を迎えた。白と赤の牡丹が咲き誇り、水際の白つつじも清楚だ。この庭園は江戸初期の遠州流の名園である。池には川の流れを引き入れ、小さな野鳥が遊んでいる。桜の季節には寺の表玄関への通路のメガネ橋に、かかるように垂れる枝垂桜の鮮やかなピンクが映えるが、この季節のとりどり花に魅せられる。

戦国武将、最上義光がその栄光と波乱にみちた69年の生涯を閉じるのは、慶長19年(1614)1月18日のことである。その3年前、慶長16年3月23日、義光は徳川家康から近衛少将に任ぜられた。京都にある天皇を護衛する、武将にとっては名誉ある役職である。だが、この晴れやかな叙任の後、義光は病に伏せるようになった。

死の前に、家康に面会せねばと考えた義光は、病をおして駿府城を訪ねた。感激した家康は、自らの近くに呼び寄せ、病状を尋ね、手ずから薬をとらせて義光の病をいたわった。帰りには江戸城で将軍秀忠に面会し、ここでもあたたかいねぎらいの言葉と数々の土産の品を下賜された。



光禅寺南東の墓所に、うしろの大樹に囲まれ、右には殉死した4名の家臣の墓碑を従えた義光の墓が威厳を示して建っている。法号は「光禅寺殿玉山白公大居士」

生前の義光は、家臣から「殿の住いを身にふさわしいものにされては」と山形城の改修を建議されても、「いや、城、堀の普請は民衆の草臥れになる。むしろ外を護る出城をしっかりとすべきで、この城に天守閣は必要ない」と応じなかった。

戦に明け暮れ、数々の人の命を失くさせたものとして、その霊への供養として寺社の造営、修復を命じている。
また京にあっては、里村紹巴や細川幽斎らの連歌の会に加わり、連歌を楽しみ、和歌を詠み、源氏物語の講話に感激して、これに打ち込んでいくという文人の面を合わせ持っていた。義光が羽黒山に参詣したおり、吹越で詠んだ和歌2首を紹介する。

 吹越や月だに漏れぬ柴の戸に夢路絶えたる山風の音
 
 朝見れば霞の衣切りたちて春秋わかず氷室守る山

このほど、山形郷土史研究会協議会が最上義光没後400年に向け、記念歌「残照」を義光の歌に着想を得てつくった。

詩:新関昭男 曲:高橋龍堂 

霞が城の春の宵

ぽつりと咲いた花ひとつ

散らすも惜しい人の道

さくら吹雪も夢のうち

花ゆえに馴れ初めけるも縁あれや

変わらじとのみちぎりつる仲
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みみずのたはごと

2012年05月16日 | 農作業


昨日の雨は上がり、気温も上がって最高気温は21.9℃となる。一日畑仕事。苗はアスパラ、スナックエンドウ、インゲン、ツルムラサキ。タネはゴボウ、オクラ、トウモロコシ、モロヘイヤ、ズッキーニなどなど。早朝から夕刻までかかる。

畝作りをしていると土中からミミズが出てくる。急に空気に触れると、びっくりするのか、ミミズは全身を躍らせて跳ね回り、土に戻ると跳ねながら隠れようとしているようだ。こんなミミズを見て思い出すのは、徳富蘆花の『みみずのたはごと』だ。明治の時代に、都市から農村へ生活の場を移した作家の体験的随想である。

蘆花が東京の貸家を離れて、北多摩郡千歳村粕谷(現在の芦花公園)に移り住むのは、明治40年2月27日のことである。移住の動機は、生まれ育った九州の実家のような茅葺の家に住みたいことと、耕すことのできる少しばかりの土地を持ちたいという切なる希望であった。近年、大都会でビジネスの世界での活動を終えた人々が、田舎住まいへ回帰することがひとつのブームになっていると聞くが、蘆花はその大いなる魁というべきか。

この移住で蘆花が携えた農作業の道具について、明治の文で書かれている。
「柄の長い作切鍬、手斧鍬、ホー、ハット型のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草刈鎌などの百姓の武器。園芸書類と種子と苗を仕入れた」
明治の農業は、こんな道具の名からして、外国からもたらされていることが推測できる。

チャペックと同じように蘆花もまた雨を待っている。
「畑のものも、田のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦がれた。「おしめりがなければ、街道は塵埃で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆ですがね」と内の婢もこぼしていた。」

いまとなっては、蘆花の住んだあたりは東京が武蔵野を呑み込んで、ほかの区と変わりない都市化を見せているが、当時はまさに山村の姿である。

「まだ北風のの寒い頃、子を負った跣足の女の子が、小目籠と包丁を持って、芹、嫁菜、薺、野蒜、蓬、蒲公英なぞ摘みに来る。紫雲英が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾いに来る。蓑笠の田植は骨でも、見るには画である。」

100年と少し時をさかのぼると、こんな風景が見える。
朝から一日、鍬や鎌を手にしながら、畑に向き合っていると、時間は100年前に立ち戻っていた。
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藤の花

2012年05月15日 | 日記


気温15℃、畑で除草、苗木にアンドン、水遣り。液肥をニンニク、ラッキョウ、ニラにかける。9時頃から雨になる。ウェザーニュースでは季節を進める雨とある。畑の作物には恵みの
雨である。雨に藤の花が洗われていた。

チャペックの「園芸家12カ月」に恵みの雨を喜ぶシーンがある。
「うれしい雨。ひやひやした水のなんというこころよさ。わたしの魂に水をあびせておくれ。わたしの心を洗濯しておくれ、きらきら光る冷い水。暑さが私を不機嫌にした。不機嫌にし、なまけ者にし、憂うつにし、鈍感に、物質的に、エゴイストにした。ひでりでわたしは干からび、憂うつと不愉快で息がつまった。ひびけ乾いた大地が降りそそぐしずくを受けるときの、銀の鈴を鳴らすような接吻!音高く降れ、風にそよぎつつ万物を洗い清める水のヴェール!どんな太陽の奇跡も、恵みの雨の奇跡にはおよばない。大地の溝の中を走れ、憂いにしずんだ小さな水。わたしたちを囚人にしている乾いた土をじっとりとうるおし、しみこんでおくれ。わたしたちは息を吹きかえした。みんな。草も、わたしも、土も、みんな。いい気持ちになった、これで。」

雨に濡れた藤の花をカメラに収める。
藤は日本古来の在来種である。ただひとつ中国から渡ってきたシナフジが例外だが。左巻のヤマフジ、右巻のノダフジの3種が原種である。フジの基本の色は紫で、それゆえに古来から人々に愛されてきた。日本の歴史上の貴族である藤原氏は、藤にゆかりの氏族であるし、僧の最高位には藤の色である紫の僧衣を着用する。

清少納言は「枕草子」でめでたきのもとして「色あひふかく、花房ながく咲きたる藤の花の
松にかかりたる」と藤の花を愛でている。昨今では、公園に設えられた藤棚に垂れ下がる藤が賞玩されているが、万葉や平安の時代は松の幹に巻きつき、その枝から垂れる藤の花が愛でられた。

恋しけば形見にせむとわが屋戸に
  植えし藤波いま咲きにけり(万葉集巻8 1471)

千数百年のときを経て、わたしたちのこころに残る藤へのあこがれはいまだに消え去ってはいない。
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野菜苗の植え付け

2012年05月13日 | 農作業
野菜の苗を買い、畑に植え付ける。
朝の気温はまだ低いが、8℃ほどあり、今週は気温が上がっていく傾向にあるので決める。植える苗はトマト(ミニ、中玉)8本、ナス5本、ピーマン2本、ナンバン2本、キュウリ3本。
サツマイモは10本を予約する。

雑草を取り、畝を作り、元肥を施して一本づつ丁寧に植えつける。植えた苗に支柱ををし、苗を紐で結ぶ。苗にはたっぷりと水をかける。朝10時半から、午後3時まで、額に汗して作業する。今年はどんな野菜の顔を見れるか、楽しみである。

先日植えたジャガイモ、水菜、サントウ菜、春大根、小松菜は小さな芽を出している。
地主さんから、全体に育ちの悪いのは肥料が不足していると、指摘される。もっと畑に通って野菜に愛情をかけて育てなければと、反省する。

収穫物、ニラ、アスパラ。ニラは10株ほどを一番採りを終え、二番目を採り始めている。アスパラは出始め。少量。

これから植えるもの。パセリ、イタリヤパセリ、ミツバ、バジルなどのハーブ系。オクラ、モロヘイヤ、スナックエンドウ、インゲン、ニンジン、カボチャ。大根、フダンソウ。ブロッコリー、ステックセニョール。
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