常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

紫波 東根山 白花カタクリ

2012年05月12日 | 日記


岩手県紫波町の東根山は花の山だ。標高928mはこの時期で、雪のない山道を気楽に花を楽しみながら登ることができる。週末ということもあって、地元の老若男女の登山客でにぎわっている。

登りはじめカタクリは終わりを告げ、二輪草の可憐な花の横につんと伸びたトリカブトが立ち上がっていた。高度を少し上げると、シラネアオイが妖艶な姿を見せる。その先の斜面には二輪草の群落が白い花をつけて一面に広がっている。

「うわあ、きれいだあ」「こんなに群生している二輪草ははじめてだわ」「そういえば、二輪草の歌があるね」「あれ、夫婦の歌かな」「二人は二輪草、川中美幸だよ」こんな他愛もない話題で盛り上がり、笑い声が絶えない。こうして足を運ばない限り、こんな光景に出会うことはない。映画や写真で美しい山の絵をみることはあるが、それは擬似体験でしかない。自分の目で見て初めて本物の自然が語りかけてくる。

今回参加した一行は男性4名、女性6名の計10名だ。曇り空ではあるが、何とか雨にあたらずに済みそうだ。気温は6℃、少し肌寒いが登山にはちょうどよい。

二の平を過ぎると高度は700mを越す。満開の大きな山桜が、一行を歓迎してくれた。桜の季節が終わってしまっただけにこんな満開の桜を見られるのはうれしい。沢筋では、サンカヨウの紫の小さな花がある。



800mを越すと、カタクリの蕾にであった。日のあたる明るい斜面には群生している。曇り空のもとでは、蕾はうつむき加減だ。ぱっと開くと、女の子たちが笑い声をたてておしゃべりをしている風情である。この山に白花カタクリがあると聞いて、「じゃあ、探して見ようよ」と花に注目する。

山道は沢へ水を流す小さな手作り水路が、そこかしこにあり、よく整備してくれている。山を管理するボランテア風の人が、この山について話をしてくれる。「白花カタクリは展望台の脇でいま咲いていますよ」

案内されるままに、カタクリの群生をみると、竹で目印をつけた白花カタクリが二本確かにあった。その笹は抜いてください、悪い人がいて珍しいからと抜いて持って帰る人がいるんですよ。

カタクリはユリ科の多年草。カタカゴともいう。葉の間から15センチほどの茎を伸ばして
下向きに咲くピンクの花をつける。

数咲いて花かたくりはひとつづつ 五十嵐橎水

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尾花沢 鈴木清風

2012年05月11日 | 日記


曇りのち晴れ。尾花沢へ行く。きょうの訪問目的は、植え付けてもらうヤーコンのタネ芋を届けることだ。植え付けを依頼して3年を経過した。最初は「こんなもの、どうするの」という感じだったが、収穫したヤーコンを食べてそのおいしさを実感し、納得して協力して貰っている。

このところ葬儀が続き、尾花沢の人たちと顔を合わせる機会がぐんと増えたため、以前にましてつき合いの度合いが深まっている。ただ、この地区は過疎化の様相をいっそう深めており、宮城県など近隣との交流は、芭蕉がこの地を訪れた時代に比べて、かなり細っているように見える。

俳聖・松尾芭蕉がこの地を訪れたのは、元禄2年(1689)5月19日(陽暦7月3日)のことである。この地の豪商鈴木清風の招きに応じるものであった。この日から5月26日、山寺へと立つまで9泊を清風宅と近くの寺、養泉寺に宿泊している。おくのほそ道の旅で、9泊というのは、異例の長期滞在で、芭蕉が清風をいかに重視してここを訪れたかが推量できる。

芭蕉は「尾花沢に清風と云う者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日此とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る」と「おくのほそ道」に書き記している。

では鈴木清風なる人物はどのような人であったか。私がこの人物について多少の知識を得たのは、学生のころゼミ演習においてであった。担当は榎本宗次先生であった。古文書の解読の演習である。そのテキストに使ったのが、大学図書館に収蔵されていた鈴木家文書であった。その文書は鈴木家が貸し付けた金品の借用書が主なもので、その対象は近隣の武家、大名であった。紅花を商いしながら、大きな商いによる利益を元手に金融行う豪商の片鱗が、古文書の随所に記されたいた。鈴木清風はその豪商の第3代当主である。

担当の榎本先生の印象は、いまだ忘れえない。古文書は丸まって保管されているので、先生はその和紙を伸ばしながら、かなの母字を示しその省略表現を話してくれた。3時ころから始まる演習は、4時半ころまで続いた。日がかげりはじめると、先生は酒の話に主題を変えた。酒どころ秋田の銘酒に話が及び、先生の好みは新政だという。ようやく20歳になった学生に「どうだね、ドッペりの駒鳥に新政があるからちょっと試飲してみないか」

そこは煮込みの鍋を置いたカウンター式の居酒屋で、ゼミの4,5名の学生は鈴木家の文書の続きに、秋田の酒の味を教わったのである。観桜会と名付けられた花見で飲んだ合成酒のような酒に比べると、先生の薀蓄も加わって何とも味わい深い秋田の酒の味であった。先生は研究した鈴木家文書をもとに、「俳人鈴木清風の豪商的側面」という論文を発表、
「芭蕉を俳諧師風情」として見下していた側面を指摘した。

尾花沢の「鈴木清風歴史資料館」に入ると、色紙に絵入りの清風伝説が展示されている。
最上の紅花商人をおとしいれようと江戸の商人たちが不買同盟をを結ぶ。それに憤った清風は舟に積んだ紅花を舟もろとも焼き払った。何しろ最上の紅花は江戸に流通する紅花(口紅の材料)の過半を占める。この事件が紅花の価格を暴騰させた。ところが焼き払った舟に積んであったのは、鉋屑で、高騰した価格で紅花を売った清風は巨万の富を得た。

この富を私することをいさぎよしとしない清風は、その利益で苦界に身を沈めた娼婦をなぐさめようと、吉原の大門を3日3晩閉めて買いきり、娼婦たちに休養を与えた。そのお礼として木彫り人麻呂人形を花魁から貰い、その現物が展示されている。この伝説が事実かどうか、疑わしいが榎本先生は清風のそんな一面を古文書の中に読み取っている。

こよなく酒を愛した榎本先生は、酔って階段を踏み外し若くしてこの世を去った。けれども先生は、私にとって生涯の恩人である。家からの仕送りもないままに入学した私に家庭教師の紹介をして下さったのも先生であった。後輩の結婚式に東京から駆けつけてきてくださったのも、きのうのことのようである。
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竜巻 空飛ぶ牛

2012年05月10日 | 農作業


爆弾低気圧の記憶も去らないうちに、今度は竜巻の猛威である。
5月6日、日本の上空には季節外れの寒気が入り込み、大気が不安定となり、雹が降り、落雷が発生、そして茨城県つくば市などでは竜巻が発生した。1人が死亡、1500棟もの建物に倒壊などの被害がでた。

竜巻の本場といえばアメリカだ。年間の発生数は1000件以上、世界中で起きる竜巻の7割がアメリカで起きている。ちなみに日本での年間発生数は20件程度であるという。
その本場アメリカの竜巻でこんなことが起きた。

1962年5月9日、アイオワ州を竜巻がおそった。愛称ファウンという雌牛がこの竜巻に巻き込まれて空高く舞い上がった。奇跡的にファウンは1キロほど離れた牧場に無事着陸した。この牧場には、雄のホルスタインがいてめでたくというか、偶然というか、結ばれた。やがて自分の牧場に連れもどされたファウンは、とき満ちてみごとな子牛を生んだ。

話はこれだけでは終わらない。それから5年後、ふたたびこの地方を竜巻がおそった。こともあろうにファウンはまたも竜巻に巻き込まれ、衆人が見ているなか数10mの高さで飛ばされた。だが、そのときもファウンは4本の足をそろえて無事に着陸した。

さすがに、飼い主は暴風警報が出るたびにファウンを牛舎に閉じ込め、再び飛ばされることのないように注意した。ファウンはその後10年平和に生き、1974年冬に死んだ。

異常気象が日本に竜巻を発生させているのではという感想を持っていた。しかし、平清盛の時代、今から800年ほど前に辻風として、竜巻の記述がある。治承4年卯月、陰暦4月であるからいまの5月であろう。このときおきた辻風は京都の京極から六条へかけて吹き抜けた。その惨状が微細に書かれている。

さながら平に倒れたるもあり、桁、柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また垣を吹きはらひて、隣とひとつになせり。いはんや、家の内の資材、数をつくして空にあり、檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風にみだるるがごとし。塵を煙のごとく吹きたてれば、すべて目も見えず、おびただしくなりとよむほどに、もの言ふ声もきこえず。(方丈記・治承の旋風)

竜巻は上空に流れ込んだ寒気と低層の暖かい空気との温度差が大きいと空気の入れ替わりが激しく、強い上昇気流や下降気流を発生させて渦ができ、風向き、速さなどの条件が加わって発生するらしい。そして竜巻と同時に発生する雷もこわい。かぎ形の火柱が、黒雲から地上へ走り落ちると、その先に落雷の被害がある。
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うそつきみっちゃん

2012年05月09日 | 日記


平成4年に亡くなった作家・井上光晴の娘、井上荒野が小説「結婚」を書いた。結婚詐欺師の男とだまされる女たちの物語だ。父・光晴にも同名の小説がある。こちらは詐欺師を追う探偵が登場するサスペンス風な小説で、井上光晴の作品では異色のものだ。

井上光晴は子どものころ、遊び仲間から「うそつきみっちゃん」と呼ばれていたらしい。
中国旅順生まれと公言していたが、本当は福岡の久留米生まれ。少年時代に炭鉱で働いていたこと、朝鮮独立運動を扇動した容疑で検挙されたことを書き記しているが、どれもうそ。

荒野は朝日新聞のインタビューで、父が朝帰りが多くので、「どこに泊まるの」と聞いたら「バーに泊めてもらう」といううそを素直に受け入れていたと語っている。「本人にしかわからないコンプレックスがあって、自分が背負っているものをプラスに転じようとして、うそをついたんだと思う」と娘の思いで推測している。

光晴自身、「小説の書き方」という本のなかで「墓場まで持っていく嘘」と題して、嘘について語っている。「はっきりいうと、自分の利益にならない嘘は、いくら吐いてもかまわないと、僕は考えます。相手を騙したり、傷つけたりする嘘は生き方として最も下劣なものですが、自らを犠牲にして相手を救う嘘は、それはもう嘘ではない。人生における虚構の方法といっていいでしょう」

たとえば「皮膚を黒く焼いて、黒人の立場に立った体験記がありましたが、10年や20年で実はこうなのだというつもりなら、初めからやらない方がましです。黒人のまま葬られる、それこそが嘘のなかの嘘だし、フィクションを最も高めた形式であるかもしれない」と語っている。

1985年11月末、山形文学伝習所が開かれ、井上光晴自身が3日間に亘って講演した。
受講生に原稿5枚を書かせ、それを読み上げながら、文章の書き方を語り、小説の書き方を語った。休憩になると、持参したジョニウォーカーの黒を舐めながら、語りに熱がこもった。「本物がわからないとだめですよ。ジョニウォーカーを飲んでみてはじめて、日本のウィスキーが色つき水だいうことがわかるんです」

「山形の漬物は本物ですね。温海かぶの酢漬けが、僕は好きです。これに少し醤油をたらして食べるとうまいね。それから、そばね。てんぷらなどをつけて食べるのは論外ですよ。かけそばで食べるのが、そばのかおりが味わえていいんですよ」

夜になると、井上光晴を囲んで伝習生の酒の会になった。作家とこれほど距離がない交流というのは、この伝習所以外にはないのではないか。だが、この時期にすでに井上は癌に蝕まれつつあった。キノコなど癌を治すといわれるあらゆる種類の民間療法を試している、と話していた。

病床についた井上は、見舞いに訪れた瀬戸内寂聴に語ったという。
「全身不随になっても、俺は生き通してみせる。切り刻まれたって、体中管だらけのお化けになったってそんなことは俺は平気だ。生きて書きたい」と。瀬戸内寂聴は井上の葬儀で弔辞を読んだ。「わたしは小田仁二郎によって文学の開眼をさせられ、あなたによって文学の軌道修正をつづけさせられました。実に多くのことをあなたから教えられました。文学の真贋の見分け方、世界の情勢の解読のしかた、不幸な人への対応の心等々、数えあげればきりもありません」

井上光晴と瀬戸内寂聴、このふたりの作家はお互いをリスペクトしながら、それぞれの道を歩んだ。出家まもない寂聴が脳梗塞で倒れた。井上が寂聴を見舞い語った。
「小説家は頭が命だよ。頭をやられたらもう終わりだ。あなたは死になさい。私が見取ってあげる。だめになったあなたをさらしものにしたくない」こうもはっきりと言い切れるのは、お互いの信頼があってこそのことであろう。

この山形文学伝習所の世話人は笹沢信氏と河内愛子女史である。井上光晴は深夜叢書の斉藤慎爾氏との交流も深く、山形と深い縁で結ばれていたのである。そのころ、私はビブリアの会やかたりべの会に属して、拙い文章を書いていた。
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千歳山 阿古屋伝説

2012年05月07日 | 農作業


千歳山は山形市のシンボルのような里山だ。
山形駅に降り立って東を望むと、正三角錐の美しい千歳山が目に飛び込んでくる。かっては全山を松が覆い、一名松山とも呼ばれていたが、今では松喰い虫の被害によって、雑木が増えた。松に代わって落葉樹の新緑が、この山の新しい魅力になった。

コナラやカエデ、サクラ、ツツジなどの落葉樹が増えることで山の素顔は大きく変わる。いま、山ザクラやツツジの花が咲き、加えてナラなどの芽吹いた新緑が山にゆたかな表情を与えている。

先月の27,28日東京・千駄ヶ谷の国立能楽堂で、この千歳山に伝わる伝説をテーマにした「阿古屋松」が上演された。主演は観世清和(観世宗家)である。陸奥の国守として仙台に赴任した藤原実方は、勅命を受けて阿古耶の松を探していたが、とある老人の案内で千歳山の松にたどり着く。この老人は塩釜明神で、ここ千歳山で松を寿ぎ、都の風雅を偲び舞う。



千歳山の頂上には「阿古耶の松」跡の碑があり、その後方に伝説の松を偲ぶ若木が植えられている。この山周辺の集落には、阿古耶姫伝説だ語り継がれている。都から赴任してきた藤原実方と契った阿古耶姫は、夫の藤原実方から意外な事実を知らされる。

実方は、「私はこの山の松の精です。いま川にかける橋を作るために伐採されて命を失いました。人のために末永く奉仕いたします。どうか悲しまないでください」。これを聞いた阿古耶姫は、実方を供養して松を植え、「千歳千歳折(ちとせせんざい)折るなかれ切るなかれ」と唱えその霊を慰めたと言う。千歳山な名の由来でもある。

ここへ来るのは、この春になって初めてだが、不思議に旧知の人に出会う。
もと山仲間だったTさんは、足を故障して山登りを断念していたが、10年ぶりここで再会した。この山を登りながら、山歩きをして6年になると話してくれた。

M広告の元社長Hさんとも10数年ぶりで会い、話をした。「ここへよく来るの」という短い会話だったが、昔日のやさしい目がそのままであった。広告営業という未知の世界に飛び込んだばかりのころ、ライバル社でありながらいろんなことを教えていただいた。
阿古耶姫の精がはたらきかけて、こんな出会いをさせてくれているような気がする。



朝、山形の街が前方に霞んで見えた。ウグイスの声に交じって、山の裾野から行き来する車の音が聞えてくる。老若男女、この山へ日課のように登る人たちと挨拶を交わしながら約1時間の朝の散歩である。

農園記録 種(春蒔きサントウ菜、ほうれん草、そば菜)収穫 ニラ おろぬき ほうれ     ん草 除草、鶏糞散布など

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