ひこばえは孫生という漢字をあて、伐り倒した木の根から出る芽のことである。稲の刈ったあとに出る稲をひこばえと言うこともあるが、本来稲孫と表記しひつじと呼ばれ、二番穂とも呼ばれる。春には田に鋤きこまれて、肥料にされるが、気温の高い沖縄や東南アジアでは、この稲孫が伸びて、穂に実が入る。いわゆる二毛作で、一度植えた苗から2回収穫できる地域もある。
稲作がどのように日本列島に広まっていったか。興味深い問題である。一般に稲作をもって弥生時代、それ以前を縄文とするが、稲作は縄文文化をただちに取り換えたわけではない。焼き畑や狩猟などの集落に、稲作を始める人が出はじめる。稲作に憬れ、それが新時代を拓くステータスとなっていたと考えられる。新知識を持つ人や取り巻きが手助けをする。焼き畑などは、集落の共有であったが、個人がひらいた田は私有となる。
稲作に伴って大陸からもたらされた外来文化には、鏡や銅剣、銅鉾などの武器や祭器、ガラス製の玉や管玉、墓石、卜骨などがある。また、養蚕、機織り、絹布は、縄文人にとってはすばらしい先端技術とみられたことは間違いない。正月の儀礼は、ハレの食物して里芋だけを使う餅なし正月から里芋と餅を併用ものから、餅だけを使う餅正月へと変遷して行ったことは、稲作が次第に社会の中心となっていく時代の変遷を示すものとして興味ぶかい。