常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

珍客

2018年08月03日 | 日記

あまりの暑さに窓を開放。部屋中に蝉の

鳴き声が響いた。木立のなかの蝉しぐれ

を聞くようだ。鳴き声の方に近づいて見

ると、ブラインドの開閉用の紐に、蝉が

止まって鳴いている。ここには緑陰があ

るわけでないが、外よりは幾分涼しいの

かも知れない。こんな小さな身体のどこ

から、これほど大きい声が出るのか、不

思議である。

夕蝉やいつほどとなく日のつまる 汀女

 

7月が暑かったせいで、夏なのに蝉が鳴

かないと不思議であった。学校の夏休み

が始まると、毎年蝉の声を聞いたものだ

が、今年は7月も末近くなってようやく

鳴き始めた。蝉の抜け殻を見る前に、熱

いアスファルトの上に、蝉の死骸を見か

ける。畑には、もう生らなくなったキュ

ウリ。雨の降らない日々は、まだまだ続

きそうだ。成長できないでいる野菜たち

を見ていると、野菜の値段が高騰するの

もうなづける。

 

この気候異変で、豊漁を報じられている

ものがある。ヒラメ網に掛ってくるワタ

リガニ。海水温の上昇とともにその漁獲

量は平年の300倍にも達しているという。

逆に不漁はサンマ、サバ。気候の変動は

食卓の風景すらも変えつつあるらしい。

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木槿

2018年08月02日 | 

この季節、朝の散歩で目立っているは木槿

の花。そして百日紅の鮮やかなピンク。木

槿の花の盛りにあうと、ふと利休の故事が

頭に浮かぶ。利休の茶室の垣根には、この

木槿がみごとに咲いていた。利休はその花

を残らずとり払い、一輪だけ茶室の床に飾

って賓客を待った。この客こそ、利休に賜

死を伝えるために訪れる豊臣秀吉である。


 道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉

この句を詠んだとき、芭蕉の脳裏には、利

休の故事が浮かんでいた、と指摘するのは

『芭蕉百五十句』を書いた安東次男である。

たしかに、まる坊主になった木槿、その花

を取り払ったのは、利休ならぬ馬と言った

ところにこの句のユーモアがある。

 

「うまい写真」と「いい写真」ということ

を指摘しているのは、もう故人となったが

八ヶ岳山麓で雑木林を作り、ギャラリーと

レストランを運営していた柳生真吾である。

柳生はプロのように「うまい写真」は撮れ

ないが、「いい写真」を撮ることを目指す、

という。それは、撮った人の心が写ってい

る写真で、見る人も楽しいもの、と語って

いる。

やはり、今朝見た木槿の見事な花は、この

花を全部取り払い、一輪だけを茶室に活け

ることを考えた利休の美意識の深さを感じ

ずにはいられない。

果たして、今朝の一枚は、こうした撮影者

の心が写っているであろうか。

 

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青空

2018年08月01日 | 日記

朝、澄みきった青空が目に飛び込んできた。

滅多に見られないほどの、きれいな青空だ。

朝のニュースを聞くと、日中は気温が上が

り、37℃にもなるという。熱中症で搬送さ

れる人の数がウナギ上り、死者の数も大雨

の被害と変わりないほどである。きれいな

はずの青空の向こうに、ふと恐怖を感じる。

妻の友人が、昼飯を食べに山形駅に来るか

ら、そこへ出て来い、との電話が入る。老

人が出歩けるような気候であることを、考

えない行動に、思わずダメを出した。

 

10時を過ぎて、雲が出てきた。青空の中の

雲のには趣がある。晩唐の詩人、杜牧も雲

を詩に詠んでいる。

尽日雲を看て首回らさず

無心都て道う才無きに似たり

憐れむべし光彩一片の玉

万里晴天何れの処より来る

「一片の玉」は、青空にぽっかり浮かんだ

雲を指している。杜牧は、雲を詠みながら

世間と相いれない孤独な心象を雲に見てい

る。人は同じ景色を見ても、様々な思いを

心中に抱く。同じような雲を見た夏目漱石

は、大患の病床で、白雲に癒されている。

 

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