1945年8月、この年も坊平高原は秋の気
配が訪れていた。都会から疎開し、中学の
同級生たちと勤労奉仕に、この高原の硫黄
鉱山に合宿していたのは、後に東大で比較
文学の研究者となる芳賀徹である。ここで
の仕事は、藪を掘り起こして少しばかりの
畑を作り、カボチャやソバの種を蒔くこと
であったと、芳賀は著書のなかで書いてい
る。私が初めてこの地を訪れたのは、エコ
ーラインが開通してからのことであるが、
まだ鉱山から出た小石をうず高く積んだ山
があった。
その月の15日、作業を中断して聞いたのは
終戦を告げる玉音放送であった。芳賀の同
級生たちは、この放送を聞いて、草むらに
へたり込み、呆然として、遥か西の空に浮
かぶ朝日連峰や月山眺めていたと回想して
いる。
ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの
蜻蛉のむれよ何処にかねむる 茂吉
同じ日、斎藤茂吉は生家の隣へ疎開し、そ
こで玉音放送を聞いている。この放送を聞
いてから、茂吉は赤とんぼに自らの心の暗
澹とした暗さを託している。おしなべて静
かな山かひや夜の闇のなかで、じっと孤独
に耐えていた。