最近ひまひまに読んでる本があります。
「自分」から自由になる沈黙入門、という
東大出の若いお坊さんが書いた、
妙にとぼけた感じの本だけど
書いてることは結構面白いの。
「不自由な自意識から解放される、
修行僧的生き方のすすめ」というコピーにあるように
「自分」濃度を薄くして、
透明感のあるものにしていくための
仏教的観点からのアドバイスみたいなもの。
そのひとつに、
全く何かにケチをつけずに1日過ごしてみる、
というのがあります。
たとえば、ですけど、
電車で女子高生が優先座席を占領しているのを見ても、
誰かに思い切りぶつかられてカバンを落としても、
並んでまで食べたお料理がおいしくなくても、
期待した映画がハズレだったとしても、
とにかく、ケチをつけない。
言葉でも心の中でも、ケチをつけない。
なんだか面白そうだな、と思って
ここ数日毎日トライしてみてるのだけど
今のところ、あえなく全敗。
難しいものだなあ。
何かにケチをつけるという心理は
ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたいと言う
裏メッセージを含んでいるものらしくて、
実は自分のことを自慢しているのと一緒だというのです。
これにケチをつけられる私のセンスは優れてる、
或いは、私のほうが良識がある、と。
仏教的には、それは矮小な自我にまみれた醜いことだ、と。
そこで、自分濃度を薄くして、
矮小なプライドを一つ一つ捨てていけば
穏やかな気品がやがて身についてくるものだ、と。
そっかー、と妙に納得したものの、
これがもう、本当に難しい。
気付いたら、心の中でぼやきまくってしまってて。
でもケチをつけてしまった後でも、
まあいいや、やめたやめた、と思うだけで、
ほんの少し、気持ちが軽くなるのを感じる。
凝り固まった小さな自我を、
ちょっと緩めてやるような感じ、というのかしら。
そうしてケチをつけるのを少しずつ減らしていけたら
もっともっと自分が解放されるのかもしれない。
こうして考えれば
仏教の説く「無我」の意味が
ほんのちょっぴり分かる気がしたりして。
丸一日ケチをつけないで過ごせる日は遠いけれど
ケチをつけずに過ごす時間を
1分でも増やしてみよう。
「自分」から自由になる沈黙入門、という
東大出の若いお坊さんが書いた、
妙にとぼけた感じの本だけど
書いてることは結構面白いの。
「不自由な自意識から解放される、
修行僧的生き方のすすめ」というコピーにあるように
「自分」濃度を薄くして、
透明感のあるものにしていくための
仏教的観点からのアドバイスみたいなもの。
そのひとつに、
全く何かにケチをつけずに1日過ごしてみる、
というのがあります。
たとえば、ですけど、
電車で女子高生が優先座席を占領しているのを見ても、
誰かに思い切りぶつかられてカバンを落としても、
並んでまで食べたお料理がおいしくなくても、
期待した映画がハズレだったとしても、
とにかく、ケチをつけない。
言葉でも心の中でも、ケチをつけない。
なんだか面白そうだな、と思って
ここ数日毎日トライしてみてるのだけど
今のところ、あえなく全敗。
難しいものだなあ。
何かにケチをつけるという心理は
ケチをつける対象よりも自分を優位に見せたいと言う
裏メッセージを含んでいるものらしくて、
実は自分のことを自慢しているのと一緒だというのです。
これにケチをつけられる私のセンスは優れてる、
或いは、私のほうが良識がある、と。
仏教的には、それは矮小な自我にまみれた醜いことだ、と。
そこで、自分濃度を薄くして、
矮小なプライドを一つ一つ捨てていけば
穏やかな気品がやがて身についてくるものだ、と。
そっかー、と妙に納得したものの、
これがもう、本当に難しい。
気付いたら、心の中でぼやきまくってしまってて。
でもケチをつけてしまった後でも、
まあいいや、やめたやめた、と思うだけで、
ほんの少し、気持ちが軽くなるのを感じる。
凝り固まった小さな自我を、
ちょっと緩めてやるような感じ、というのかしら。
そうしてケチをつけるのを少しずつ減らしていけたら
もっともっと自分が解放されるのかもしれない。
こうして考えれば
仏教の説く「無我」の意味が
ほんのちょっぴり分かる気がしたりして。
丸一日ケチをつけないで過ごせる日は遠いけれど
ケチをつけずに過ごす時間を
1分でも増やしてみよう。
煩悩まみれのわが生活では至難のことですが。
別の似たような本で「あきらめる」というのもあったね。これも執着をはずす、ということでしょうね。
生涯解脱することは出来ないかもしれないけれど、執着を手放せば楽に生きられるということだけは、やっと理解できたみたい。それも前進、ということにしておきましょう。