今年6月17日付けブロクの続編である。
教職に就いていた者だからなのだろうか。
それとも、私だからなのだろうか。
現職を離れて久しいのに、今も時折、
何の前触れもなく、学校での諸々が頭をよぎる。
そして、ため息をついたり、嘆いてみたり、
時には、自責の念にかられ、
もう一度あの日に戻ってやり直したいと思ったりする。
その中から、2つを記す。
(1)
5年生の担任だった時だ。
6月の中頃、めずらしく転校生があった。
朝早く、突然学校に来たらしく、
職員朝会前に校長室で紹介された。
見るからに寡黙そうなお父さんが一緒だった。
すらっとした長い足の女の子で、
これまたおとなしそうだった。
氏名の確認など、私のちょっとした問いに、
首をふって応えるだけだった。
その日から、私の学級に加わった。
今まで転校経験はなかったようだが、
すぐに学級に溶け込み、
女子のなかよしが数人できたようだった。
学力もある程度あり、いつも落ち着いた表情で、
私の話もしっかりと聞いていた。
自信がないのか、進んで挙手をすることはなく、
自分の考えを言うこともなかった。
きっと、もっと学級に慣れれば、手も上げるだろう。
「その内に、その内」
私は、安心していた。
夏休みが過ぎ、9月末だった。
確か月曜日だと記憶している。
その子が、何の連絡もなく欠席をした。
珍しく自宅に電話がなかった。
1、2時間目と連絡を待ったが、
気になり、主事さんに自宅まで行ってもらった。
3時間目の途中で、
主事さんが教室のドアをたたいた。
息が切れ、若干顔色がなかった。
玄関に忌中の知らせがあったと言う。
近所の方から、「ご主人が亡くなった。」
と、聞いたとのこと。
慌てて書類をめくった。
なんと、お父さんと二人暮らしだった。
「あのお父さんが・・・。」
その夜、校長先生と一緒にお通夜に行った。
葬儀の場所は、自宅だった。
古い安アパートの狭い玄関の奥に、
遺影が置かれていた。
玄関先でお焼香をした。
奥の間に、親戚の方だろうか、
中年の男女とその子がいた。
手招きすると、外に出てきてくれた。
私の問いかけに、
1週間位前に様子がおかしくなり、
救急車で病院に運んだ。
そして、昨日、何も言わずに亡くなったと言う。
入院している間は、一人で家にいたのだと。
きっと不安な毎日だっただろう。そして、今夜も・・・。
胸がつまった。
全く気づいて上げられなかった。
「そうだったの。大変だったね。・・・。」
それ以上の言葉が、何も浮かばなかった。
翌日、授業をやりくりして、出棺を見送った。
近所の数人がその場にいた。
昨日と同じ3人が車に乗り込んで行った。
次の日、その子は学校に来なかった。
かわりに、昼過ぎ、伯母さんという方が来校した。
転校の手続きをしたいと言う。
「身寄りは私だけなので、
引き取るしかないんです。」
困り切った表情にも見えた。
迷惑な事だという顔にも思えた。
転校の日を尋ねると、「今」と言われた。
この足で、すぐ田舎に戻るのだと言う。
私は、急いで転校の書類を整えて渡した。
その子とは、それっきり顔を合わせることもなく、
別れたままになっている。
今も悔いている。
一教師として、
その子を救う手立てなどないに等しい。
また、あの急展開の中で転校することになった子に、
私の言葉など、どれくらいの励みになるか。
全く力など持たないとも思う。
しかし、教職にある者として、
せめて、心を込めた励ましのひと言くらいは、
当然だったではないだろうか。
あの時、5時間目が迫っていた。
でも、授業をお願いすることはできたと思う。
少しの時間でも、
その子に逢うことはできたはずだ。
私の自己満足でもよかった。
せめて「頑張って。」のひと言を伝えるべきだった。
「困ったときには、連絡をするんだよ。」と、
私の電話番号と住所くらいは手渡すべきだった。
どうして、その一歩を踏み出さなかったのか。
私の甘さに、今も心が痛む。
(2)
何が理由で、私の隣りで毎日を過ごすことになったのか、
思い出すことができない。
冬休みがあけてすぐに、
4年生の女子が学校に来なくなった。
担任が毎日、家庭訪問をし、登校を促した。
功を奏して、ある日、校門をくぐった。
しかし、玄関先で体を固くし「教室には行かない。」と、
泣きじゃくった。
このまま帰宅させる訳にはいかないと、
担任と養護教員、そして教頭の私が、彼女を囲んだ。
その結果、どんなことがどう彼女の心を動かしたのか。
とにかく、私と一緒なら学校にいると言うのだ。
その日から毎日、職員室の私の隣りで、
彼女は過ごすことになった。
私は、日々職務に追われた。
その忙しさの横で、彼女は教科書をひろげ、
時には担任が持ってきたプリントやテストをした。
給食も一緒だった。
担任や他の先生には、口数が少ないのに、
私には、自分から進んで話しかけてきた。
分からないところは、何の遠慮もなく質問した。
時には急の質問に、手が離せない仕事で、
しばらく待つように伝えると、
彼女は少しすねたような顔を作って言い出した。
「今、教えて欲しいのに・・、ケチ。」
「すみません。ケチですよ。もう一度考えてみて頂戴!」
「そう言って、時間かせぎですね。
わかってますよ。」
言いながら、彼女は、再び教科書に向かう。
そんなやりとりが、1日に何度もくり返された。
職員室にいる先生方は、それを耳にして、
目を丸くした。
そんな1ヶ月が過ぎた頃、
給食を食べながら、
私は、さり気なく言ってみた。
「教室で食べてみたら・・。」
「そうしようかな。」
翌日から、彼女は給食時間だけ教室に行き、
元気よく、また私の隣りに戻ってきた。
そして、数日後、友だちと約束したからと、
体育の時間だけ、授業に行くようになった。
その流れは、次第に加速し、
3月初めには、私の横からすっかり姿を消した。
それでも、毎日欠かさず、帰り際には職員室に寄り、
私と顔を合わせてから、下校した。
まずは一安心と思い、年度末を迎えた。
ところが、4月、
私は、他区に校長として異動になった。
5年生になった彼女は、
学級編制替えがあり、担任も替わった。
離任式の時、
体育館で、400人の子どもの中にいる彼女を見た。
目にいっぱい涙をうかべ、
小さく手を振っていた。
後ろ髪を引かれる思いがした。
しばらくして、彼女の担任から電話が来た。
再び不登校になった。
私と話がしたいと言っているとのことだった。
数日後の夕方、
彼女は担任と一緒に、私の校長室に来た。
明るい表情でソファーに腰掛けると、
彼女は多弁だった。
「校長室で何してるの?」
「子ども達は何人いるの?」
「5年生は何人?」
「どうやって通ってるの?電車?」
私に質問を浴びせた。
そして、「5年生はつまらない。」
「話しにくい子ばっかり。」
「Mちゃんもいない。Sさんも。I君も。
なかよしは誰もいない。」
次々と辛い現状を口にした。
私は質問に答え、聞き役に回るだけだった。
あの職員室でのやりとりのような、
会話のキャッチボールがなかった。
不安が大きく膨らんだ。
それでも、
「いっぱいしゃべったから、明日から学校行くね。」
そう言い残し、帰って行った。
翌日、「約束通り登校しました。」と、
担任から電話がきた。
違和感があった。
私は、彼女と登校の約束などしていなかった。
しかし、その後の私は、
慣れない校長職に精一杯の日を送った。
彼女のことは、時折気になったが、
目先の毎日に追い回された。
夏休み直前、彼女は転校の手続きをし、学校を去った。
私が、それを知ったのは1年後だった。
悔いが残った。
あの時、もっと心を開いてあげられたのではないか。
気持ちを楽にしてあげる手立ては、
きっとあったはずなのに・・・。
もっと気楽に言葉を投げかけてあげれば・・・。
そして、あの時「登校はいつになったっていいんだよ。」
と、一言言えば・・・。
私は、彼女の胸の内を見誤ったのだ。
どうして、先を見通して、思いを巡らせなかったのか。
再び、私の甘さを痛感する。
ただ、自分を叱ることしか、今はできない。
雪化粧したジューンベリー
教職に就いていた者だからなのだろうか。
それとも、私だからなのだろうか。
現職を離れて久しいのに、今も時折、
何の前触れもなく、学校での諸々が頭をよぎる。
そして、ため息をついたり、嘆いてみたり、
時には、自責の念にかられ、
もう一度あの日に戻ってやり直したいと思ったりする。
その中から、2つを記す。
(1)
5年生の担任だった時だ。
6月の中頃、めずらしく転校生があった。
朝早く、突然学校に来たらしく、
職員朝会前に校長室で紹介された。
見るからに寡黙そうなお父さんが一緒だった。
すらっとした長い足の女の子で、
これまたおとなしそうだった。
氏名の確認など、私のちょっとした問いに、
首をふって応えるだけだった。
その日から、私の学級に加わった。
今まで転校経験はなかったようだが、
すぐに学級に溶け込み、
女子のなかよしが数人できたようだった。
学力もある程度あり、いつも落ち着いた表情で、
私の話もしっかりと聞いていた。
自信がないのか、進んで挙手をすることはなく、
自分の考えを言うこともなかった。
きっと、もっと学級に慣れれば、手も上げるだろう。
「その内に、その内」
私は、安心していた。
夏休みが過ぎ、9月末だった。
確か月曜日だと記憶している。
その子が、何の連絡もなく欠席をした。
珍しく自宅に電話がなかった。
1、2時間目と連絡を待ったが、
気になり、主事さんに自宅まで行ってもらった。
3時間目の途中で、
主事さんが教室のドアをたたいた。
息が切れ、若干顔色がなかった。
玄関に忌中の知らせがあったと言う。
近所の方から、「ご主人が亡くなった。」
と、聞いたとのこと。
慌てて書類をめくった。
なんと、お父さんと二人暮らしだった。
「あのお父さんが・・・。」
その夜、校長先生と一緒にお通夜に行った。
葬儀の場所は、自宅だった。
古い安アパートの狭い玄関の奥に、
遺影が置かれていた。
玄関先でお焼香をした。
奥の間に、親戚の方だろうか、
中年の男女とその子がいた。
手招きすると、外に出てきてくれた。
私の問いかけに、
1週間位前に様子がおかしくなり、
救急車で病院に運んだ。
そして、昨日、何も言わずに亡くなったと言う。
入院している間は、一人で家にいたのだと。
きっと不安な毎日だっただろう。そして、今夜も・・・。
胸がつまった。
全く気づいて上げられなかった。
「そうだったの。大変だったね。・・・。」
それ以上の言葉が、何も浮かばなかった。
翌日、授業をやりくりして、出棺を見送った。
近所の数人がその場にいた。
昨日と同じ3人が車に乗り込んで行った。
次の日、その子は学校に来なかった。
かわりに、昼過ぎ、伯母さんという方が来校した。
転校の手続きをしたいと言う。
「身寄りは私だけなので、
引き取るしかないんです。」
困り切った表情にも見えた。
迷惑な事だという顔にも思えた。
転校の日を尋ねると、「今」と言われた。
この足で、すぐ田舎に戻るのだと言う。
私は、急いで転校の書類を整えて渡した。
その子とは、それっきり顔を合わせることもなく、
別れたままになっている。
今も悔いている。
一教師として、
その子を救う手立てなどないに等しい。
また、あの急展開の中で転校することになった子に、
私の言葉など、どれくらいの励みになるか。
全く力など持たないとも思う。
しかし、教職にある者として、
せめて、心を込めた励ましのひと言くらいは、
当然だったではないだろうか。
あの時、5時間目が迫っていた。
でも、授業をお願いすることはできたと思う。
少しの時間でも、
その子に逢うことはできたはずだ。
私の自己満足でもよかった。
せめて「頑張って。」のひと言を伝えるべきだった。
「困ったときには、連絡をするんだよ。」と、
私の電話番号と住所くらいは手渡すべきだった。
どうして、その一歩を踏み出さなかったのか。
私の甘さに、今も心が痛む。
(2)
何が理由で、私の隣りで毎日を過ごすことになったのか、
思い出すことができない。
冬休みがあけてすぐに、
4年生の女子が学校に来なくなった。
担任が毎日、家庭訪問をし、登校を促した。
功を奏して、ある日、校門をくぐった。
しかし、玄関先で体を固くし「教室には行かない。」と、
泣きじゃくった。
このまま帰宅させる訳にはいかないと、
担任と養護教員、そして教頭の私が、彼女を囲んだ。
その結果、どんなことがどう彼女の心を動かしたのか。
とにかく、私と一緒なら学校にいると言うのだ。
その日から毎日、職員室の私の隣りで、
彼女は過ごすことになった。
私は、日々職務に追われた。
その忙しさの横で、彼女は教科書をひろげ、
時には担任が持ってきたプリントやテストをした。
給食も一緒だった。
担任や他の先生には、口数が少ないのに、
私には、自分から進んで話しかけてきた。
分からないところは、何の遠慮もなく質問した。
時には急の質問に、手が離せない仕事で、
しばらく待つように伝えると、
彼女は少しすねたような顔を作って言い出した。
「今、教えて欲しいのに・・、ケチ。」
「すみません。ケチですよ。もう一度考えてみて頂戴!」
「そう言って、時間かせぎですね。
わかってますよ。」
言いながら、彼女は、再び教科書に向かう。
そんなやりとりが、1日に何度もくり返された。
職員室にいる先生方は、それを耳にして、
目を丸くした。
そんな1ヶ月が過ぎた頃、
給食を食べながら、
私は、さり気なく言ってみた。
「教室で食べてみたら・・。」
「そうしようかな。」
翌日から、彼女は給食時間だけ教室に行き、
元気よく、また私の隣りに戻ってきた。
そして、数日後、友だちと約束したからと、
体育の時間だけ、授業に行くようになった。
その流れは、次第に加速し、
3月初めには、私の横からすっかり姿を消した。
それでも、毎日欠かさず、帰り際には職員室に寄り、
私と顔を合わせてから、下校した。
まずは一安心と思い、年度末を迎えた。
ところが、4月、
私は、他区に校長として異動になった。
5年生になった彼女は、
学級編制替えがあり、担任も替わった。
離任式の時、
体育館で、400人の子どもの中にいる彼女を見た。
目にいっぱい涙をうかべ、
小さく手を振っていた。
後ろ髪を引かれる思いがした。
しばらくして、彼女の担任から電話が来た。
再び不登校になった。
私と話がしたいと言っているとのことだった。
数日後の夕方、
彼女は担任と一緒に、私の校長室に来た。
明るい表情でソファーに腰掛けると、
彼女は多弁だった。
「校長室で何してるの?」
「子ども達は何人いるの?」
「5年生は何人?」
「どうやって通ってるの?電車?」
私に質問を浴びせた。
そして、「5年生はつまらない。」
「話しにくい子ばっかり。」
「Mちゃんもいない。Sさんも。I君も。
なかよしは誰もいない。」
次々と辛い現状を口にした。
私は質問に答え、聞き役に回るだけだった。
あの職員室でのやりとりのような、
会話のキャッチボールがなかった。
不安が大きく膨らんだ。
それでも、
「いっぱいしゃべったから、明日から学校行くね。」
そう言い残し、帰って行った。
翌日、「約束通り登校しました。」と、
担任から電話がきた。
違和感があった。
私は、彼女と登校の約束などしていなかった。
しかし、その後の私は、
慣れない校長職に精一杯の日を送った。
彼女のことは、時折気になったが、
目先の毎日に追い回された。
夏休み直前、彼女は転校の手続きをし、学校を去った。
私が、それを知ったのは1年後だった。
悔いが残った。
あの時、もっと心を開いてあげられたのではないか。
気持ちを楽にしてあげる手立ては、
きっとあったはずなのに・・・。
もっと気楽に言葉を投げかけてあげれば・・・。
そして、あの時「登校はいつになったっていいんだよ。」
と、一言言えば・・・。
私は、彼女の胸の内を見誤ったのだ。
どうして、先を見通して、思いを巡らせなかったのか。
再び、私の甘さを痛感する。
ただ、自分を叱ることしか、今はできない。
雪化粧したジューンベリー
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