母は、10年前に亡くなった。96才だった。
あと一息で100才だと思うと、若干残念ではあったが、
それでも、天寿をまっとうしたと納得している。
葬儀では、22才も違う長姉の強い推薦もあり、
末っ子の私が弔辞を述べることになった。
通夜の後、一晩かけて書き上げた文面には、
『明治の女性であった我が母のその生涯は、
ただただ子を想い、家族を案じる暮らしぶりでした。』
と、記した。
そして、『時に人は、“美しく老いること”に憧れます。
母の晩年は、そんな言葉がふさわしいものでした。
80才を越えてもなお、月に一度は美容院に行き、髪を整えた母。
まるで、文学好きの少女のように、目を輝かせ歴史小説を読みふけった母。
毎日、朝刊に目を通し、社会の動静に一人心を痛めた母。
「何もないけど、食べていってね。」と、
いつもいつも、健気に甲斐甲斐しく人をもてなした母。
私は、この年令になった今でもなお、
そんな貴方から、多くのことを学んでいました。』
と、遺影に語りかけ、
一人の女性としての、そして母としての、その生涯に称賛と感謝を伝えた。
実母の弔辞など、異例のことのように思うが、
大勢の弔問の方を前に、
舌足らずとは言え、母への別れを伝えることができ、
私は、この上ない幸せを感じた。
しかし、その弔辞でどうしても言葉にできず、
今も悔いていることがある。
それは、何を隠そう、母へのお詫びであった。
何時の時代でも、子は親にいくつもの隠し事をする。
そして、沢山の隠し事を抱えながら、子は成長するのである。
だから、私も親には言わないその時々の秘密を持ち、
それを何とか親に内緒でクリアーし、少年期と青年期を越えてきた。
だが、私の悔いは、それらとは全く違った。
私は、父41才、母40才の時に産まれた。
まだ、戦後の混乱した時である。
すでに成人を迎えていた長姉は、母が身ごもったことを知ると、
「そんな恥ずかしこと。」と口走ったと言う。
それだけ、当時として珍しい高齢での出産だった。
私は、我が家の都合で3才から保育所で育った。
確か、5才の時だったと思う。
毎月決まった日に納めていた保育料が、袋ごと保育カバンから無くなった。
盗まれたものか、落としたものか、分からなかった。
今思うと、当時の母は更年期障害だったのではないだろうか。
家事も仕事もせず、床に伏せていた。
しかし、月々の保育料は我が家にとって高額だった。
母は、ふらつく体をおして、保育所に出向き、所長さんと面談した。
母は、ゆっくりとしたたどたどしい足取りで、
保育所の壁に手をそえながら歩いていた。
私は、遊戯室のガラス窓からそんな母を見た。
いつも近くでしか見ない母の姿を、初めて遠くから見た。
弱々しいその足取りを、まばたきもしないでじっと見た私。
目から涙がいっぱい溢れ出た。
保育所の先生が、後から私をぎゅっと抱きしめてくれた。
やがて、母はすっかり回復し、
小学校の入学式では私の手を引き、一緒に担任の先生に挨拶をしてくれた。
張り切りすぎた私は、名前を言って頭を下げたのだが、
そこに机があり、音をたてておでこをぶつけ、瘤を作った。
母は、「まあ、この子ったら。」と言いながら、
今度は母が頭を下げ、私の後頭部に母のおでこをぶつけた。
二人でおでこを擦りながら、泣き笑いをした。
ところが、2年生の時だった。
忙しい仕事を抜けて、初めて母が授業参観に来てくれた。
私は浮かれていた。
先生の目を盗んで、笑顔で教室の後の母を探した。
その夜、夕食を囲んだ家族の前で、
「もう授業参観に来なくていいから。」
と、強い口調で言った。
母からも兄弟たちからも、「どうして?」とくり返し訊かれたが、
私はその訳を決して言わなかった。
教室の後に立っていた母は、一人だけ違っていた。
まだまだ貧しい時代だった。
それでも、母以外はみんな洋服だった。
母だけ、もんぺ姿だった。
どのお母さんも若々しいのに、母は背を少し丸め、老けて見えた。
急に、保育所でのたどたどしい母の歩き方と私の涙を思い出し、心が沈んだ。
以来、授業参観どころか、母は学校に一切来なかった。
そして、私は中学、高校、大学の入学式の同伴を父に頼み、
母は、どんな思いだったのか、
「父さん、お願いしますね。」と、入学式のたびに頭を下げた。
そんなことがあっても、母は、私をいつも心優しく見守ってくれた。
末っ子の特権で、兄弟たちを押しのけ、家では母に甘えていた。
思春期の頃だったと思う。
何をやっても思うようにならず、気持ちが荒れていた。
どうにでもなれとばかり、母に当たり散らした。
その時、「あんたは努力家なんだから、何だって諦めたらダメ。」
と、目を真っ赤にしながら言ってくれた。
心がすうっと静かになった。
そして、その言葉は、私の一生の宝になった。
それでも、私は母と一緒に人前に立つことを嫌がった。
友だちに母を紹介するのも避けた。
親は、我が子にできるだけ不憫な思いをさせたくないと思うのが常である。
だから、年のいった母を恥ずかしく思う我が子を察し、
母は、学校へ行くことを諦めたのだと思う。
できるだけ我が子と一緒の場に出ることも避けてくれたのだと思う。
私は、そんな子を想う母の気持ちを、深く考えもせず、
当然のことのように振る舞い続けた。
やがて、私も成人し、二人の子の親となった。
自慢の親とまではいかなくても、子どもにとって恥ずかしくない親でありたいと努めた。
そして、我が子に避けられた親の気持ちに気づいた。
母の、心の傷の深さを思い、息が詰まった。
申し訳ない気持ちを適当に濁すことなく、いつか、母に、
「辛い思いをさせてしまったね。済まなかったね。」
と、心から詫びようと思っていた。
けれど、生前も、そしてあの弔辞と言う最後のチャンスでも、
それを、言葉にできないまま終わってしまった。
その悔いは、これからも消えることはない。
福寿草が咲いている・今年の伊達は春が早い
あと一息で100才だと思うと、若干残念ではあったが、
それでも、天寿をまっとうしたと納得している。
葬儀では、22才も違う長姉の強い推薦もあり、
末っ子の私が弔辞を述べることになった。
通夜の後、一晩かけて書き上げた文面には、
『明治の女性であった我が母のその生涯は、
ただただ子を想い、家族を案じる暮らしぶりでした。』
と、記した。
そして、『時に人は、“美しく老いること”に憧れます。
母の晩年は、そんな言葉がふさわしいものでした。
80才を越えてもなお、月に一度は美容院に行き、髪を整えた母。
まるで、文学好きの少女のように、目を輝かせ歴史小説を読みふけった母。
毎日、朝刊に目を通し、社会の動静に一人心を痛めた母。
「何もないけど、食べていってね。」と、
いつもいつも、健気に甲斐甲斐しく人をもてなした母。
私は、この年令になった今でもなお、
そんな貴方から、多くのことを学んでいました。』
と、遺影に語りかけ、
一人の女性としての、そして母としての、その生涯に称賛と感謝を伝えた。
実母の弔辞など、異例のことのように思うが、
大勢の弔問の方を前に、
舌足らずとは言え、母への別れを伝えることができ、
私は、この上ない幸せを感じた。
しかし、その弔辞でどうしても言葉にできず、
今も悔いていることがある。
それは、何を隠そう、母へのお詫びであった。
何時の時代でも、子は親にいくつもの隠し事をする。
そして、沢山の隠し事を抱えながら、子は成長するのである。
だから、私も親には言わないその時々の秘密を持ち、
それを何とか親に内緒でクリアーし、少年期と青年期を越えてきた。
だが、私の悔いは、それらとは全く違った。
私は、父41才、母40才の時に産まれた。
まだ、戦後の混乱した時である。
すでに成人を迎えていた長姉は、母が身ごもったことを知ると、
「そんな恥ずかしこと。」と口走ったと言う。
それだけ、当時として珍しい高齢での出産だった。
私は、我が家の都合で3才から保育所で育った。
確か、5才の時だったと思う。
毎月決まった日に納めていた保育料が、袋ごと保育カバンから無くなった。
盗まれたものか、落としたものか、分からなかった。
今思うと、当時の母は更年期障害だったのではないだろうか。
家事も仕事もせず、床に伏せていた。
しかし、月々の保育料は我が家にとって高額だった。
母は、ふらつく体をおして、保育所に出向き、所長さんと面談した。
母は、ゆっくりとしたたどたどしい足取りで、
保育所の壁に手をそえながら歩いていた。
私は、遊戯室のガラス窓からそんな母を見た。
いつも近くでしか見ない母の姿を、初めて遠くから見た。
弱々しいその足取りを、まばたきもしないでじっと見た私。
目から涙がいっぱい溢れ出た。
保育所の先生が、後から私をぎゅっと抱きしめてくれた。
やがて、母はすっかり回復し、
小学校の入学式では私の手を引き、一緒に担任の先生に挨拶をしてくれた。
張り切りすぎた私は、名前を言って頭を下げたのだが、
そこに机があり、音をたてておでこをぶつけ、瘤を作った。
母は、「まあ、この子ったら。」と言いながら、
今度は母が頭を下げ、私の後頭部に母のおでこをぶつけた。
二人でおでこを擦りながら、泣き笑いをした。
ところが、2年生の時だった。
忙しい仕事を抜けて、初めて母が授業参観に来てくれた。
私は浮かれていた。
先生の目を盗んで、笑顔で教室の後の母を探した。
その夜、夕食を囲んだ家族の前で、
「もう授業参観に来なくていいから。」
と、強い口調で言った。
母からも兄弟たちからも、「どうして?」とくり返し訊かれたが、
私はその訳を決して言わなかった。
教室の後に立っていた母は、一人だけ違っていた。
まだまだ貧しい時代だった。
それでも、母以外はみんな洋服だった。
母だけ、もんぺ姿だった。
どのお母さんも若々しいのに、母は背を少し丸め、老けて見えた。
急に、保育所でのたどたどしい母の歩き方と私の涙を思い出し、心が沈んだ。
以来、授業参観どころか、母は学校に一切来なかった。
そして、私は中学、高校、大学の入学式の同伴を父に頼み、
母は、どんな思いだったのか、
「父さん、お願いしますね。」と、入学式のたびに頭を下げた。
そんなことがあっても、母は、私をいつも心優しく見守ってくれた。
末っ子の特権で、兄弟たちを押しのけ、家では母に甘えていた。
思春期の頃だったと思う。
何をやっても思うようにならず、気持ちが荒れていた。
どうにでもなれとばかり、母に当たり散らした。
その時、「あんたは努力家なんだから、何だって諦めたらダメ。」
と、目を真っ赤にしながら言ってくれた。
心がすうっと静かになった。
そして、その言葉は、私の一生の宝になった。
それでも、私は母と一緒に人前に立つことを嫌がった。
友だちに母を紹介するのも避けた。
親は、我が子にできるだけ不憫な思いをさせたくないと思うのが常である。
だから、年のいった母を恥ずかしく思う我が子を察し、
母は、学校へ行くことを諦めたのだと思う。
できるだけ我が子と一緒の場に出ることも避けてくれたのだと思う。
私は、そんな子を想う母の気持ちを、深く考えもせず、
当然のことのように振る舞い続けた。
やがて、私も成人し、二人の子の親となった。
自慢の親とまではいかなくても、子どもにとって恥ずかしくない親でありたいと努めた。
そして、我が子に避けられた親の気持ちに気づいた。
母の、心の傷の深さを思い、息が詰まった。
申し訳ない気持ちを適当に濁すことなく、いつか、母に、
「辛い思いをさせてしまったね。済まなかったね。」
と、心から詫びようと思っていた。
けれど、生前も、そしてあの弔辞と言う最後のチャンスでも、
それを、言葉にできないまま終わってしまった。
その悔いは、これからも消えることはない。
福寿草が咲いている・今年の伊達は春が早い
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