『ジューンベリーに忘れ物』という面倒なタイトルをつけたブログも、
週一の更新をくり返し、1年が過ぎた。
この間、57編におよぶ私の想いを、
その週その週、遠慮なく記させてもらった。
今日も、このブログを開き、目を通してくださる方々の存在が、
大きな励みになっている。心からお礼を申し上げたい。
さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
このブログに新美南吉の代表作と言える
『てぶくろを買いに』と『ごんぎつね』について触れた。
優れたストーリー性に魅了されるが、人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感を持った。
視点を変えると、それこそが南吉ワールドではないのかと雑感を記した。
しかし、『ごんぎつね』は南吉17歳、
『てぶくろを買いに』は20歳の作品である。
その若さを考えると、南吉の世界観に対し私なりの理解ができる。
きっと、南吉の人生の通過点がにじみ出たのではなかろうか。
それに比べ、今回とり上げる『おじいさんのランプ』は、
30歳の若さで亡くなる前年に書き上げたものである。
翌年・昭和17年10月に、
同じタイトルがついた南吉の第一童話集が発刊されるが、
生前に見ることができた最後の本であった。
そして、その年12月、永眠した。
私は校長職の頃、このお話を月曜朝会のお話や
卒業式等各種式典での祝辞等で、よく引用させてもたった。
この作品を、ある人は『辞め方の美学』と絶賛していたが、同感できる。
そして、巳之助の生き様と「いさぎよさ」は、
私を何度となく励まし、勇気づけてくれた。
そのストーりーと作者の思いを追いかけてみたい。
この物語は、おじいさんが孫に
自分の半生を語り聞かせる形式で描かれている。
時代は、明治・『日露戦争のじぶん』である
センテンス1 運命を変える希望のランプ
~ 文明開化の利器との出会い
おじいさん・巳之助が13の少年だった時に……
『巳之助は、………、まったくのみなし子であった。≪中略≫
けれども巳之助は、こうして村の人々のお世話で生きてゆくことは、
ほんとうをいえばいやであった。
子守をしたり、米をついたりして一生を送るとするなら、
男とうまれたかいがないと、つねづね思っていた。
男子は身を立てねばならない。 ≪中略≫
身を立てるのによいきっかけがないかと、
巳之助はこころひそかに待っていた。』
そして、運命の一日が訪れ……
『ある夏の日の昼下がり、巳之助は人力車の先綱をたのまれた。≪中略≫
夏の入り日のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走った。
なれないこととでたいそう苦しかった。
しかし巳之助は、苦しさなど気にしなかった。好奇心でいっぱいだった。
なぜなら巳之助は、≪中略≫ 峠の向こうにどんな町があり、
どんな人々が住んでいるか知らなかったからである。』
好奇心いっぱいで出会った物は、……
『その町で、いろいろなものをはじめて見た。≪中略≫
巳之助をいちばんおどろかしたのは、……
花のようにあかるいガラスのランプであった。≪中略≫
このランプのために、……町ぜんたいが、
竜宮城かなにかのようにあかるく感じられた。
もう巳之助は、じぶんの村へ帰りたくないとさえ思った。
人間はだれでも、あかるいところから暗いところに帰るのを
このまないのである。
呉服屋では、番頭さんが、つばきの花を大きく染め出した反物を、
ランプの光の下にひろげて客に見せていた。 ≪中略≫
またある家では、女の子がランプの光の下に
白く光る貝がらをちらしておはじきをしていた。≪中略≫
ランプの青やかな光のもとでは、人々のこうした生活も、
物語か幻灯の世界でのように美しくなつかしく見えた。
巳之助は今までなんども、「文明開花で世の中がひらけた。」
ということをきいていたが、
今はじめて文明開化ということがわかったような気がした。』
心の躍動感と共に手にはランプ……
『やぶや松林のうちつづく暗い峠道でも、
巳之助はもうこわくはなかった。
花のようにあかるいランプをさげていたからである。
巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。
文明開化におくれたじぶんの暗い村に、
このすばらしい文明の利器を売り込んで、
村人たちの生活をあかるくしてやろうという希望のランプが―。』
センテンス2 幸せの絶頂と進んだ文明開花
~悲哀をさまよう
順調にしょうばい進み、暗い家にあかるい火を……
『巳之助のあたらしいしょうばいは、はじめのうち、まるではやらなかった。
百姓たちは、なんでもあたらしいものを信用しないからである。≪中略≫
ランプのよいことがはじめてわかった村人から、…注文があった…。≪中略≫
これから巳之助のしょうばいは、はやってきた。≪注力≫
巳之助は、お金ももうかったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。
今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともってゆくのである。
暗い家に、巳之助は文明開花のあかるい火を一つ一つともしてゆくような気がした。』
家をもち、結婚もして、人生の絶頂期に……。
『巳之助はもう、男ざかりの大人であった。家には子どもがふたりあった。
「じぶんもこれでどうやら、ひとり立ちができたわけだ。
まだ身を立てるというところまではいっていないけれども。」
と、ときどき思ってみて、そのつど心に満足をおぼえるのであった。≪中略≫
さて、ある日、巳之助がランプの芯を仕入れに大野の町へやってくると、≪中略≫
きみょうな高い柱は50メートルぐらいあいだをおいては、道のわきに立っていた。
巳之助はついに、日なたでうどんをほしている人にきいてみた。すると、うどんやは
「電気とやらいうもんがこんどひけるだげな。ランプはいらんようになるだげな、」
と答えた。
巳之助はよくのみこめなかった。電気のことなど知らなかったからだ。』
電気に驚き、そして新しい時代への悲壮感が……。
『光は家の中であまって、道の上にまでこぼれて出ていた。
ランプを見なれていた巳之助には、まぶしすぎるほどのあかりだった。
巳之助は、くやしさで肩でいきをしながら、これも長いあいだながめていた。
ランプの、てごわいかたきが出てきたわい、と思った。
以前には文明開化ということをよくいっていた巳之助だったけれど、
電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるということはわからなかった。
りこうな人でも、じぶんが職を失うかどうかというようなときには、
ものごとの判断が正しくつかなくなることがあるものだ。
その日から巳之助は、電燈がじぶんの村にもひかれるようになることを、
心ひろかにおそれていた。』
センテンス3 古いものは間にあわない
~ 痛烈な気づき
おそれが現実となり、狂い、そしてうらみへ……
『巳之助は、だれかをうらみたくてたまらなかった。 ≪中略≫
そして、区長さんをうらまねばならぬわけをいろいろ考えた。
へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、
正しい判断を失うものである。
とんでもないうらみをいだくようになるものである。』
放火という暴挙の寸前、急転直下が……
『「マッチを持ってくりゃよかった。
こげな火打ちみてえな古くせえもなあ、いざというとき間にあわねえなあ。」
そういってしまって巳之助は、ふとじぶんのことばをききとがめた。
「ふるくせえもなあ、いざというとき間にあわねえ、
……古くせえもなあ間にあわねえ……」
ちょうど月が出て空があかるくなるように、
巳之助の頭がこのことばをきっかけにして、あかるく晴れてきた。』
過ちへの劇的な気づきが……
『ランプはもはや古い道具になったのである。
電燈というあたらしい、いっそう便利な道具の世の中になったのである。
それだけ世の中がひらけたのである。文明開花が進んだのである。
巳之助もまた日本のお国の人間なら、
日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。
古いじぶんのしょうばいが失われるからとて、
世の中の進むのにじゃましようとしたり、
なんのうらみもない人をうらんで火をつけようとしたのは、
男としてなんという見苦しいざまであったことか。』
センテンス4 古い時代との決別
~ 辞め方のドラマが映像に
あかりのともった50のランプに「わしのやめかたは」と……
『やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つひろった。
そして、いちばん大きくともっているランプに
ねらいをさだめて、力いっぱい投げた。
パリーンと音がして、大きい火が一つ消えた。
「あまえたちの時世はすぎた。世の中は進んだ。」
と、巳之助はいった、そしてまた一つ石ころをひろった。
二番目に大きかったランプが、パリーンと鳴って消えた。
「世の中が進んだ。電気の時世になった。」
三番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、
もうランプにねらいをさだめることができなかった。』
「いさぎよさ」にあふれた辞めの道……
『「わしのしょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、
なかなかりっぱだったと思うよ。……
日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、
すっぱりそいつをすてるのだ。
いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、
じぶんのしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、
世の中の進んだことをうらんだり、
そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ。」
読後、いつまでもいつまでも池之端にともる
ランプのパリーン、パリーンと割れる音が心に残る。
巧みな起承転結が、見事なストーリーを生み出し、
心の奥底まで染みわたる物語にしている。
南吉ワールドに、脱帽である。
しかし、それにしてもこの作品か、昭和16年のものであることに驚く。
丁度太平洋戦争が始まった頃である。
『おしいれのぼうけん』等の作者・古田足日氏は、
「戦時中、児童文学は政府に保護されたことと、
児童文学者たちがすぐれた作品を書こうとした努力がみのり、
ほかの学問や芸術がおとろえたのに、児童文学だけが進歩した。」
と記していた。
そして、「おじいさんのランプ」について、
『もっとも印象にのこるところとして、
多くの人が、巳之助がランプを池の岸の木にともして、
それを割っていく場面をあげています。
ここは非常に美しき場面なので印象にのこるのは当然のことですが、
もし人間の原動力がもっと力強く書かれるなら、
この美しさを圧倒する、力にあふれた美しさが
巳之助のその後の行動として出てくるはずのものです。
それが書けなかったところに、新美南吉もこえることができなかった、
時代の壁というものがあります。』と。
オオウバユリが咲き始めた(背丈が2㍍のものも)
週一の更新をくり返し、1年が過ぎた。
この間、57編におよぶ私の想いを、
その週その週、遠慮なく記させてもらった。
今日も、このブログを開き、目を通してくださる方々の存在が、
大きな励みになっている。心からお礼を申し上げたい。
さて、昨年10月18日『南吉ワールド』の題で、
このブログに新美南吉の代表作と言える
『てぶくろを買いに』と『ごんぎつね』について触れた。
優れたストーリー性に魅了されるが、人間への不信とも思える冷ややかさに、
私は釈然としない読後感を持った。
視点を変えると、それこそが南吉ワールドではないのかと雑感を記した。
しかし、『ごんぎつね』は南吉17歳、
『てぶくろを買いに』は20歳の作品である。
その若さを考えると、南吉の世界観に対し私なりの理解ができる。
きっと、南吉の人生の通過点がにじみ出たのではなかろうか。
それに比べ、今回とり上げる『おじいさんのランプ』は、
30歳の若さで亡くなる前年に書き上げたものである。
翌年・昭和17年10月に、
同じタイトルがついた南吉の第一童話集が発刊されるが、
生前に見ることができた最後の本であった。
そして、その年12月、永眠した。
私は校長職の頃、このお話を月曜朝会のお話や
卒業式等各種式典での祝辞等で、よく引用させてもたった。
この作品を、ある人は『辞め方の美学』と絶賛していたが、同感できる。
そして、巳之助の生き様と「いさぎよさ」は、
私を何度となく励まし、勇気づけてくれた。
そのストーりーと作者の思いを追いかけてみたい。
この物語は、おじいさんが孫に
自分の半生を語り聞かせる形式で描かれている。
時代は、明治・『日露戦争のじぶん』である
センテンス1 運命を変える希望のランプ
~ 文明開化の利器との出会い
おじいさん・巳之助が13の少年だった時に……
『巳之助は、………、まったくのみなし子であった。≪中略≫
けれども巳之助は、こうして村の人々のお世話で生きてゆくことは、
ほんとうをいえばいやであった。
子守をしたり、米をついたりして一生を送るとするなら、
男とうまれたかいがないと、つねづね思っていた。
男子は身を立てねばならない。 ≪中略≫
身を立てるのによいきっかけがないかと、
巳之助はこころひそかに待っていた。』
そして、運命の一日が訪れ……
『ある夏の日の昼下がり、巳之助は人力車の先綱をたのまれた。≪中略≫
夏の入り日のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走った。
なれないこととでたいそう苦しかった。
しかし巳之助は、苦しさなど気にしなかった。好奇心でいっぱいだった。
なぜなら巳之助は、≪中略≫ 峠の向こうにどんな町があり、
どんな人々が住んでいるか知らなかったからである。』
好奇心いっぱいで出会った物は、……
『その町で、いろいろなものをはじめて見た。≪中略≫
巳之助をいちばんおどろかしたのは、……
花のようにあかるいガラスのランプであった。≪中略≫
このランプのために、……町ぜんたいが、
竜宮城かなにかのようにあかるく感じられた。
もう巳之助は、じぶんの村へ帰りたくないとさえ思った。
人間はだれでも、あかるいところから暗いところに帰るのを
このまないのである。
呉服屋では、番頭さんが、つばきの花を大きく染め出した反物を、
ランプの光の下にひろげて客に見せていた。 ≪中略≫
またある家では、女の子がランプの光の下に
白く光る貝がらをちらしておはじきをしていた。≪中略≫
ランプの青やかな光のもとでは、人々のこうした生活も、
物語か幻灯の世界でのように美しくなつかしく見えた。
巳之助は今までなんども、「文明開花で世の中がひらけた。」
ということをきいていたが、
今はじめて文明開化ということがわかったような気がした。』
心の躍動感と共に手にはランプ……
『やぶや松林のうちつづく暗い峠道でも、
巳之助はもうこわくはなかった。
花のようにあかるいランプをさげていたからである。
巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。
文明開化におくれたじぶんの暗い村に、
このすばらしい文明の利器を売り込んで、
村人たちの生活をあかるくしてやろうという希望のランプが―。』
センテンス2 幸せの絶頂と進んだ文明開花
~悲哀をさまよう
順調にしょうばい進み、暗い家にあかるい火を……
『巳之助のあたらしいしょうばいは、はじめのうち、まるではやらなかった。
百姓たちは、なんでもあたらしいものを信用しないからである。≪中略≫
ランプのよいことがはじめてわかった村人から、…注文があった…。≪中略≫
これから巳之助のしょうばいは、はやってきた。≪注力≫
巳之助は、お金ももうかったが、それとは別に、このしょうばいがたのしかった。
今まで暗かった家に、だんだん巳之助の売ったランプがともってゆくのである。
暗い家に、巳之助は文明開花のあかるい火を一つ一つともしてゆくような気がした。』
家をもち、結婚もして、人生の絶頂期に……。
『巳之助はもう、男ざかりの大人であった。家には子どもがふたりあった。
「じぶんもこれでどうやら、ひとり立ちができたわけだ。
まだ身を立てるというところまではいっていないけれども。」
と、ときどき思ってみて、そのつど心に満足をおぼえるのであった。≪中略≫
さて、ある日、巳之助がランプの芯を仕入れに大野の町へやってくると、≪中略≫
きみょうな高い柱は50メートルぐらいあいだをおいては、道のわきに立っていた。
巳之助はついに、日なたでうどんをほしている人にきいてみた。すると、うどんやは
「電気とやらいうもんがこんどひけるだげな。ランプはいらんようになるだげな、」
と答えた。
巳之助はよくのみこめなかった。電気のことなど知らなかったからだ。』
電気に驚き、そして新しい時代への悲壮感が……。
『光は家の中であまって、道の上にまでこぼれて出ていた。
ランプを見なれていた巳之助には、まぶしすぎるほどのあかりだった。
巳之助は、くやしさで肩でいきをしながら、これも長いあいだながめていた。
ランプの、てごわいかたきが出てきたわい、と思った。
以前には文明開化ということをよくいっていた巳之助だったけれど、
電燈がランプよりいちだん進んだ文明開化の利器であるということはわからなかった。
りこうな人でも、じぶんが職を失うかどうかというようなときには、
ものごとの判断が正しくつかなくなることがあるものだ。
その日から巳之助は、電燈がじぶんの村にもひかれるようになることを、
心ひろかにおそれていた。』
センテンス3 古いものは間にあわない
~ 痛烈な気づき
おそれが現実となり、狂い、そしてうらみへ……
『巳之助は、だれかをうらみたくてたまらなかった。 ≪中略≫
そして、区長さんをうらまねばならぬわけをいろいろ考えた。
へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、
正しい判断を失うものである。
とんでもないうらみをいだくようになるものである。』
放火という暴挙の寸前、急転直下が……
『「マッチを持ってくりゃよかった。
こげな火打ちみてえな古くせえもなあ、いざというとき間にあわねえなあ。」
そういってしまって巳之助は、ふとじぶんのことばをききとがめた。
「ふるくせえもなあ、いざというとき間にあわねえ、
……古くせえもなあ間にあわねえ……」
ちょうど月が出て空があかるくなるように、
巳之助の頭がこのことばをきっかけにして、あかるく晴れてきた。』
過ちへの劇的な気づきが……
『ランプはもはや古い道具になったのである。
電燈というあたらしい、いっそう便利な道具の世の中になったのである。
それだけ世の中がひらけたのである。文明開花が進んだのである。
巳之助もまた日本のお国の人間なら、
日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。
古いじぶんのしょうばいが失われるからとて、
世の中の進むのにじゃましようとしたり、
なんのうらみもない人をうらんで火をつけようとしたのは、
男としてなんという見苦しいざまであったことか。』
センテンス4 古い時代との決別
~ 辞め方のドラマが映像に
あかりのともった50のランプに「わしのやめかたは」と……
『やがて巳之助はかがんで、足もとから石ころを一つひろった。
そして、いちばん大きくともっているランプに
ねらいをさだめて、力いっぱい投げた。
パリーンと音がして、大きい火が一つ消えた。
「あまえたちの時世はすぎた。世の中は進んだ。」
と、巳之助はいった、そしてまた一つ石ころをひろった。
二番目に大きかったランプが、パリーンと鳴って消えた。
「世の中が進んだ。電気の時世になった。」
三番目のランプを割ったとき、巳之助はなぜかなみだがうかんできて、
もうランプにねらいをさだめることができなかった。』
「いさぎよさ」にあふれた辞めの道……
『「わしのしょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、
なかなかりっぱだったと思うよ。……
日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、
すっぱりそいつをすてるのだ。
いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、
じぶんのしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、
世の中の進んだことをうらんだり、
そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ。」
読後、いつまでもいつまでも池之端にともる
ランプのパリーン、パリーンと割れる音が心に残る。
巧みな起承転結が、見事なストーリーを生み出し、
心の奥底まで染みわたる物語にしている。
南吉ワールドに、脱帽である。
しかし、それにしてもこの作品か、昭和16年のものであることに驚く。
丁度太平洋戦争が始まった頃である。
『おしいれのぼうけん』等の作者・古田足日氏は、
「戦時中、児童文学は政府に保護されたことと、
児童文学者たちがすぐれた作品を書こうとした努力がみのり、
ほかの学問や芸術がおとろえたのに、児童文学だけが進歩した。」
と記していた。
そして、「おじいさんのランプ」について、
『もっとも印象にのこるところとして、
多くの人が、巳之助がランプを池の岸の木にともして、
それを割っていく場面をあげています。
ここは非常に美しき場面なので印象にのこるのは当然のことですが、
もし人間の原動力がもっと力強く書かれるなら、
この美しさを圧倒する、力にあふれた美しさが
巳之助のその後の行動として出てくるはずのものです。
それが書けなかったところに、新美南吉もこえることができなかった、
時代の壁というものがあります。』と。
オオウバユリが咲き始めた(背丈が2㍍のものも)
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