それでも進んでいく(キャンバスに鉛筆)
部分的であれ、日本のコロナウイルスによる緊急事態宣言は解除されました。3月28日から始めましたマスクでお絵かき運動ですが、この解除で一区切りといたします。
後世に語り継がれる歴史の中で生きたという実感を大事にしたいと思います。もちろんまだまだこれから予断を許さない状態が続くのは自明ですが、光が見えてきたと言う思いがようやく芽生えてきました。
この間中断しておりました般若心経への思いを続けてみたいと思います。
前の記事を読み返してみて、これは自分だけしか分からないと思われる文が多すぎると思いました。
その原因は自分に酔っているという事なのでしょう。2か月近く、マスクでお絵かきをして、冷めた自分が記事を読み返したら、それがよく分かりました。
改善できるか分かりませんが、この意識を持ちながら書いてみたいと思います。
般若心経の最大のテーマは、「無」ですね。
全体で276文字のコンパクトなお経ですが、その中に「無」という文字は21回使われています。約一割を無が占めているのです。ちなみに「空」は7回です。
この「無」とは何を言おうとしているのか気になります。経文を順に見て行きますと、無の付けられた言葉が次のように並んでいます。
1 無色
2 無受想行識
3 無眼耳鼻舌身意
4 無色声香味触法
5 無眼界
6 無意識界
7 無無明
8 無無明尽
9 無老死
10 無老死尽
11 無苦集滅道
12 無知
13 無得
14 以無所得故
15 心無罣礙
16 無罣礙故
17 無有恐怖
18 無上呪
19 無等等呪
この中で7と8では「無」が2回使われていますので、合計21回という訳です。
最後の18と19は特に重要な意味は考えられませんが、1~17にかけての「無」には考えてみる価値があるのです。
1~10の「無」は私たちが普段に見聞きする世界、あるいは感じ思い描くすべてのこと、老いや死までもが無いと言っています。
11に至ってはお釈迦様の、悟りに至る教えである「苦集滅道」でさえ無いと言うのです。
そして、12~17の「無」、ここで一つの答えが見えてきます。
それが分かるのが、15の「心無罣礙」でしょう。
知も無く得るものも無いのだから、心に罣礙(こだわり)が無い。
こだわりが無いから 17の無有恐怖、恐怖の有ることも無いという結論に至っています。
この心にこだわりが無いゆえに、究竟涅槃(探求の末、悟りを得る)と言う訳です。
つまり、「無」とは真実に対する無ではなく、心に対する無であることを繰り返し述べているという事なのです。
真実は決して無ではない。無は心の中にあるものなのだという訳です。
この経文で「無」を添えられたすべての言葉は、実は心の中で作られたものなんだと言っているのですね。心の中で作りだしたものは本当には実在しない。けれど、人はそれを「有」と思い込んで恐怖を感じているだけなのだ。けれどもそれは実は「無」なんだよ。という事ですね。
故にその「無」を知ることで私達は真実に目覚める。それが涅槃。覚醒であり悟りだという事なのでしょう。
これと似たようなことを私達は疑似体験しています。たとえば映画です。
スクリーンを見ながら、私達はそれを現実のように想い、ハラハラドキドキします。しかし何かのはずみで自分に気付くことがありますね。映画を見ている自分に気付いたら興醒めですが、それが現実に目覚めること覚醒ですね。夢から覚めて自分に気付くのです。
般若心経では、自分の人生そのものが、心の作りだした映画だと言っているのです。自分を主人公にした大河ドラマなのです。
一体誰がそのドラマを観ているのか。目を覚ましなさい。覚醒したらドラマを眺めている真実のあなたがそこにいる。間違いなくあなたはあなたのドラマを観ている「真実」なのだよ。そう般若心経は言っている。
でも、いつでも覚醒は出来るのだから急ぐ必要はない。最後まで自分のドラマを観ようではありませんか。
もし苦悩の連続、辛いドラマの主人公をやっている人がいたら、このドラマを観ている自分の「真実」に想いを馳せたらいい。
苦悩や恐怖を感じているあなたは「無い」のです。あなたはドラマの主人公に過ぎない。面白いのは、そこからこだわりを捨てるシナリオを描くことも出来るという事でしょう。
般若心経はそれを伝えているのだと思います。シナリオとは、考え方のことですね。
コロナ厄難もまた、よきシナリオに仕上げることが出来る。人間力の試される時代だと思います。
苦難を受けているすべての人々に真理が訪れますように願うばかりです。
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