清州の駅から徒歩20分、
清須市はるひ美術館に向かう道程に大きなクスノキが見える。一本の樹が一つの森のようで、毎回私を寄り道に誘う。
先日、その誘いに乗って、行ってみると、拝殿はなく、神楽の舞台と小さな社があるだけの境内。そこに大楠が立っている。
石柱に大國霊神社の名があるので、どうやら先週に見た裸祭りの国府宮と関係があるのかも知れない。
ともあれ、誘われて立ち寄っただけの価値のある樹容。一目で好きになった。
二本の幹が寄り添って空に向かう素直さがうれしい。
手を添えると、精霊が流れ込んでくるような気分になる。
温かい肌だが、正面だけ樹皮が擦り切れている。私のように手を触れるやからが多いいということののだろうか。あるいは精霊の出入り口なのかも知れない。
見上げると見事な宇宙。いのちのドームが見える
時間を忘れて見上げている。
このクスノキの風景に、もう一つの風景を重ねたらどう見えるだろうか。
ふとそんな思いがやってきた。
対称性宇宙から見た世界だ。
天に向かって歓喜の祭礼か、暗黒の儀式か。
それは見るものの心にゆだねられている。
ところで、あの精霊の出入り口には何が見えるのだろう、もし本当に精霊の出入り口なら、対称性を備えたその真の姿が見えるかもしれない。
一体どうしてこんなことが起こるのだろう。
かわいい精霊が、その入り口から私を見つめているではないか。しかもその上には闇の樹霊が見下ろすように眼を光らせている。
自然というものの不思議。
この不思議に包まれて生きてる自分が、まるで精霊に抱かれているように思えるのはどうしてなのだろう。
ナウイズムの姿がそこにあるのだろうか。
ワタシにはワカラナイ
エヴァンゲリオン読破、お疲れさまでした(笑)。
寝不足、大丈夫でしょうか?ソッチの感想等のお返事は、先のブログのコメント欄で少々書かせていただきました☺。
クスノキ、何故か好きです。
事実、自作のモチーフによく使います、ご存知でしょうが(笑)。
クスの大木の根本に立ち、広がる枝葉を眺めていると……言葉が消えます。
消える言葉の感触を、言葉で表現したくなるのが私の業ですが。
クスに感じる感触で、今、言葉になるのは
『輝く星に、なれましたか?』
という優しい問いかけ……かもしれません。
『なれた、と言い切る自信はありませんけど、 なりたい、とは、思い続けています』
が、今の答えです(笑)。38歳のアイツと同じく。
基本はそれで良いでしょうが。その更なる先、クスの語るナニかが変わる日が……予想出来なくて、楽しみです。
あなたの中の輝く星を身守っているのも^ね^
卒業制作はそんな作品でしたね。輝き始めていますよ。
ところで、もう一つこんな考え方もあります。
自ら輝かない星
たとえばダイヤ。
自ら輝かないダイヤは、暗い闇の中で、ひたすら自分を磨きます。それは光があたったとき、目いっぱい輝くように。
一流のダイヤは、その場所でひたすら磨きをかけます。
二流のダイヤは光のある方向に走り回って、自分を忘れている。
むっちゃんの創作態度は間違いなく、一流のダイヤです^よ^
一流かどうかはわからないですけど、『輝く星でありたい』と思い続けることは、研いだり磨いたりする事につながる……のかもしれません。
現在の研いだり磨いたりのその先にある、修羅が若干、怖くはありますけど……恐れず進み、その先の大楠先生のお言葉を聞きたい、と思います(笑)。
そして、一流である意識を捨てないことです^ね^。
一流とは、
死ぬまで光があたらなくてもいい。という覚悟ですから、
修羅を受け入れて、自分の出来ることをやる。
「とりあえず生きている」で肩の力を抜いて行きましょう。
つまり本州に生えてる楠は全部二次林・人が意思を持ち植えた物なんですね。
楠は密度が高く腐食しにくいので、寺や神社の濡れ縁に使われます。
「じゃ全部 楠で家作れば良い」と思う人もいるでしょうが、全部使うとなると、硬くて加工しにくい楠は、大工さん泣かせ となって使われない、のです。
熱帯の植物?なのでしょうか^ね^
神社につきものという感じのクスノキですが、意図して植えられたものだったというのは意外でした。
ところで、野性のクスノキとはどんなものなのでしょうね。
見てみたい。
そんな気がします。