図は空海の心の世界(十住心)と五次元の世界を描いたもの
上の図を作成した経緯は、先のカンフー対談の後日談にある。
あの日私は新しくできた五次元を説明する図を、
分かれる間際に手渡したのだった。(下図)
その一週間後だった。
彼がこの図の感想を持ってやって来たのだ、
そして私に問うた。
①ジュウジュウシンを知っていますか?
聞いたことがありません。何ですかそれは?
私は興味を持って問い返した。
②あの図を読ませてもらって、同じイメージの教えを思い出したのです。
十住心は空海が悟りに向かう心の発達を十段階にまとめたもので、真言密教の教えの重要な柱の一つです。
悟りの段階を表した十牛図というのは知っていますが、同じようなものですか?
中国の禅僧の作と言われる十牛図は、五次元追究のバロメーターであった。
⓷もっと心を宇宙的にとらえたものです。これを持ってきました。
そう言って彼はバックから一冊の本を取り出し、パラパラめくってページを開いた。
その本は真言密教の本という表題の、簡単な入門書の体で、
人間の誕生から宇宙(大日如来)に至るまでの心の段階を十に区分けした表が載っていた。
牧歌的な十牛図とは明らかに違う。もっと大きなとらえ方が示されている。
見入っている私に彼が言った。
④頂いた図にある五次元というのは、この十住心を思い起こさせます。参考にしてみてください。
貸していただけますか。良いものを教えて頂きました。
じっくり読んでみたいと思います。
私は早速ノートに十住心の表を写し取った。
最近文字を直に書くことが少ないので、そんなことも新鮮な気持ちの一端であったかもしれないが
空海の描いた十段階の心の相を、プレゼントの包み紙を開けるような気分で追いながら書き移していていった。
そしてその右側に、各段階を五次元の世界観に解釈し直して並記してみたのだ。
無謀だとも思ったのだが、
意外にも第一住心から第十住心まで、詰まる事なく自分の言葉で言い表すことが出来た。
子守を仰せつかった幼子を膝に眠らせながら五次元の言葉で翻訳できたことに驚き、
膝の子が導いてくれたのかと、孫の寝顔を見た。
十牛図では描かれていない第一住心の安からな寝息が嬉しかった。
下の表は、そのノートをパソコンに打ち直したものである。
本に掲載されていた表の右側に、五次元思考による解釈を私自身の言葉で対置させたもので
私の言葉以外は、学研「真言密教の本」P55にある十住心の表そのものである。
ただし表の流れは本とは逆転させて、PC画面の特性を意識して1~10に下がっていく図にしている。
この表を見ながら真っ先に思ったことは、空海も同じ思いであったと信じたいという一点である。
(そうでなかったら空海はただの権威主義者だ)
それはこの十の段階は決して人間存在の優劣を決めるものではないということだ。
1~10の段階は決して優劣ではないし、そのようなとらえ方をして間違った認識を持ってはならないだろう。
膝の幼子と、私の間に優劣はないというのと同じことなのだ。
そして空海にその証拠を見付けた。
大日如来である。
空海は人間の成り立っている宇宙を大日如来と訳した。
そして決定的な証拠は、
この世のすべて一切のものは、大日如来の化身だという言葉だったのだ。
この一言で、
大日如来というのは、五次元宇宙の考えと完全に一致すると確信できたのだ。
無限の数ほどある素粒子を正確に引き寄せ、あるいは引き離し、
私の身体を作っている設計図とそれに従う意思。
宇宙語と言い表してきたその力を
空海は大日如来と呼んだ
私の翻訳である。
それ故、無我の認識がなかった文化圏に起こったキリスト教などが
この表から見れば第三住心に留まっているように見えるが、これは単なる認識の問題であることは明白であろう。
繰り返すが、これは認識の問題なのだ。
そして五次元もまた認識である。
話の要点は
認識が変われば世界の見え方が変わる。
その進化のことなのだが、それは決して「より強い別もの」になるというのではないのである。
ただひたすら、認識は古いものを内に秘めながら
次元を上げてその視野を広げていくということなのだ。
例えば上の図を見ながら認識世界を想像してほしい。
四次元の認識では、私たちに絶対的なものはこの肉体である。
世界を感じる私という主人公(認識主体)は 肉体(物質)を離れることはない。
自分の大きさは不変であるという思い込みを疑うこともしないということだ
五番目の認識手段がないために時間に左右され、物の変化に一喜一憂して螺旋を描くのである。
この四次元人間が思い描く世界観は、己の肉体とそこに宿った精神という捉え方がせいぜいで、
その自分が住まう宇宙が最大の世界だと観るのである。
その一方で、スケールの概念を身に着けた五次元思考では、
この身は絶対ではないことを視覚的に理解するのである。
私を小さなスケールで観たら、素粒子の集団であり、それらはたった一つの空の中に浮かんでいる。
逆に私を大きなスケールで観たら、私の立っている地球と同じ天体が無数に集まっている
そんな大宇宙空間がある。それを巨大な人間の内部と考えても、間違いとは言えないだろう。
そしてそれもまた、たった一つの空の中に浮かんで存在しているのである。
思考次元が一つ増えるだけで認識世界がどれだけ広がるかということを実感できるのではないだろうか。
五次元認識では、物質は様々なスケールによって幾重にも変幻する。
必然的に、この世界を安定して眺められるものは、空ということになる。
認識主体とは私のことであって、私とはいかなる時でも同じ姿で存在するもの、すなわち空。
つまり五次元は、認識主体が物質から空に入れ替わるのである。
すると、その空をどうしたら認識できるのかという問題に行き当たる。
そこで再び上の図に行き着くのである。
心の流れを表した赤い螺旋のベクトルに注目すると、
実のところ四次元の認識では赤いベクトルは直線にしか見えないのである。
地上にいる我々が、地球の螺旋運動が見えないのと同じと考えていいだろう。
五次元で眺めたときはじめて心の流れは螺旋の姿を現す。
そしてその中心に螺旋を推進するベクトル(黒)が見えてくるのだ。
それが五次元の真の姿なのである。
姿が見えたら空も認識できる。それは言うまでもない事であろう。
五次元思考によって喜怒哀楽は螺旋の姿に客体化する。
客体化した喜怒哀楽というのはそれを眺める主体が別に存在するということだ。
喜怒哀楽の中心に現れるベクトル(黒)こそ、空が主体として昇華した姿なのである。
最後に第十住心の記述は、密教独自の心の世界である。
顕教とは人の教えを引き継いで到達した境地
密教とは、宇宙そのものから真理を導き出した境地
だとしたら、心が真理(大日如来=宇宙)と一体になるという境地は密教そのものでしかない。
五次元は、顕教を学習する能力と気力のない私が
止むにやまれず宇宙から直接己の秘密を探し求めて来た結果である。
期せずしてそれが
空海とつながったということになる。
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